第1章

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 ひぐっちゃんは軽く手を上げてから、階段を上って、たくさんの人の間に見えなくなった。   ■  「なんで、ああいうことするかな?」  怒っている彼女は見る価値がある。  「奥さん、ここんとこ、しわ取れなくなるわよ」  眉間をつつこうとした人差し指を、つかんでひねり上げられた。  「あたたたた、やめろ、公務執行妨害」  指は離してもらえたが、今度は制帽を取られた。  くるくる回してから、ぽんと頭にかぶった。どうしたって大きすぎるくせに、そのままいばって先に立つ。  橙色の遊歩道を、白自転車を引き追いかける。  金木犀の名残の甘い風が、長いスカートを揺らした。ビーズのついた黒いぺったん靴は、前に俺が中華街で買ったお土産だ。履いているところ、初めて見た。  「ひぐっちゃんはお巡りさんなんでしょ。市民のいのちと生命を守るんじゃないの?」  「いのちと生命は同じだ、よ」  追いつき隙をつき、制帽を取り返す。  夕日にきれいに染まったせいか、彼女の横顔はさびしそうに見えた。長い髪がさらさら風に舞い、誘われている気にさせる。手を伸ばし触れたら、また指をひねられるかな。  「守ってるよう、悪い人を懲らしめてたじゃん」  「カツアゲにしか、見えなかった」  「いや、ああいう人たちと、我が社は持ちつ持たれつだから」  「相変わらずのバカばっかり」  俺は落ち着きなく体を揺らし、ぺらぺらしゃべる。  「ああそうだ。この商売はなかなかうまいよ。工夫次第で、いろんなところから金が入るし、女の子にだってモテる。侵入や尾行、盗撮、盗聴の技術は教えてもらえるし、銃まで撃てるんだぜ。まったく人生楽しいね」  「そんな人生、すぐに破綻する」  「へえ、割りに普通のこと言うのね」  彼女は、あきらめと失望の混ざった顔をゆるりと上げた。  「ていうか、丈一は破綻したいんだよね。現場じゃ、わざとケガするような無茶ばっかして。いきがってるとそのうち、お望みどおりコロっといくよ」  俺はにっこり笑って見せた。  こいつは中学生のときから、はっきりしないもやもやを言葉に差し替えるのが上手だ。  また、きれいな眉間にしわが寄る。  「ちょっとは、将来のこと考えなさいよ。丈一に守るものはないの?」  俺はあごを上げ、考える振りになった。  「ない」  彼女はうつむき歩き出した。今日はこれ以上叱ってくれそうにない。  「なあ、ホテル行くべえよ」
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