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ひぐっちゃんは軽く手を上げてから、階段を上って、たくさんの人の間に見えなくなった。
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「なんで、ああいうことするかな?」
怒っている彼女は見る価値がある。
「奥さん、ここんとこ、しわ取れなくなるわよ」
眉間をつつこうとした人差し指を、つかんでひねり上げられた。
「あたたたた、やめろ、公務執行妨害」
指は離してもらえたが、今度は制帽を取られた。
くるくる回してから、ぽんと頭にかぶった。どうしたって大きすぎるくせに、そのままいばって先に立つ。
橙色の遊歩道を、白自転車を引き追いかける。
金木犀の名残の甘い風が、長いスカートを揺らした。ビーズのついた黒いぺったん靴は、前に俺が中華街で買ったお土産だ。履いているところ、初めて見た。
「ひぐっちゃんはお巡りさんなんでしょ。市民のいのちと生命を守るんじゃないの?」
「いのちと生命は同じだ、よ」
追いつき隙をつき、制帽を取り返す。
夕日にきれいに染まったせいか、彼女の横顔はさびしそうに見えた。長い髪がさらさら風に舞い、誘われている気にさせる。手を伸ばし触れたら、また指をひねられるかな。
「守ってるよう、悪い人を懲らしめてたじゃん」
「カツアゲにしか、見えなかった」
「いや、ああいう人たちと、我が社は持ちつ持たれつだから」
「相変わらずのバカばっかり」
俺は落ち着きなく体を揺らし、ぺらぺらしゃべる。
「ああそうだ。この商売はなかなかうまいよ。工夫次第で、いろんなところから金が入るし、女の子にだってモテる。侵入や尾行、盗撮、盗聴の技術は教えてもらえるし、銃まで撃てるんだぜ。まったく人生楽しいね」
「そんな人生、すぐに破綻する」
「へえ、割りに普通のこと言うのね」
彼女は、あきらめと失望の混ざった顔をゆるりと上げた。
「ていうか、丈一は破綻したいんだよね。現場じゃ、わざとケガするような無茶ばっかして。いきがってるとそのうち、お望みどおりコロっといくよ」
俺はにっこり笑って見せた。
こいつは中学生のときから、はっきりしないもやもやを言葉に差し替えるのが上手だ。
また、きれいな眉間にしわが寄る。
「ちょっとは、将来のこと考えなさいよ。丈一に守るものはないの?」
俺はあごを上げ、考える振りになった。
「ない」
彼女はうつむき歩き出した。今日はこれ以上叱ってくれそうにない。
「なあ、ホテル行くべえよ」
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