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彼女は後輩たちに手を振る。
「二号、傘持ってんだったら入れてけよ。そこで待ってろ。速攻着替えてくっから」
「それが人にものを頼む態度?」
あくまでも冷たく聞こえるようにそっぽを向いたが、耳の後ろあたりがじわりとひくつく。
顔を上げると、彼女はもう更衣室へ駆けだしたあとだった。
傘立ての角に尻を置き、じっと外を見つめた。
雨は激しさを増している。俺がにらんでいるせいなのだろう。
俺の左半身はほとんど濡れた。彼女はそんなこと気づきもしない。
「一号が、今日さあ授業中、」
拳を口にあて、くすくす一人で笑っている。
自分をこういうふうに聞くのは妙だ。彼女の前で、こんなに長く弟を演じたのは初めてだった。
俺は傘の柄をそっと握り返す。
「兄貴がまたなんかした?」
「英語の小野に例の調子で適当なこと言ってんの。『先生のせいで、僕勉強に集中できません』とかって。かわいそうに先生、真に受けて真っ赤になってんの」
眉がぴくりとひきつったが、表情は変えない。弟ならきっとこう言う。
「やれやれ、あいかわらず守備範囲の広いことで」
車がすぐ脇を通りすぎた。水がはねたのを体でかばう。
背中に彼女の両の手のひらが押しつけられた。温かい。
「ありゃ、こっちずいぶん濡れてる」
急に冷たい左手をつかまれ、逆上して振りほどいてしまった。
彼女は何でもないふうに歩き出す。
「一号、もうちょっと本気を出したほうがいいよ」
長く見つめすぎた。咳払いしながら横についた。
雨は激しく、傘の先から糸のようにとめどなく落ちる。
彼女の右肩も濡れていた。腕を伸ばしたら届く距離だ。
「あのヒトに本気なんて、最初からない」
上の空で答えたのを、怒った声で返された。
「でも、もう三年になっちゃったんだよ。競馬で言えば、各馬ゲートイン。ゴールを決めなくても押し出されちゃうの! 一号はいっつも行き当たりばったり。大学行く気あるの? ないの? ちょっとは、将来のこと考えなさいよ。二号みたいに前もってきちんと決めてるほうが、結局楽なんだよ」
眉間にしわを寄せ、怒っている彼女は見る価値がある。俺の視線に気がついて、顔を肩ごとそむけてしまった。
そのひょうしに、彼女のひじが腹にあたった。
作った無表情はますます固くなる。
「心配してるんだ、やつのこと」
彼女はくるんと瞳を回し、怒った顔で見上げた。
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