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「ええ、それで僕は悟ったんです。努力しても無駄なこともあるって。この件は手に負えないってね」
タバコが吸いたかったが、近くに自販機はない。俺はゆっくり立ち上がった。
「やれやれ、今の話は結構面白かった。でもね、先生」
胸ポケットから名刺を取り出し、先生の手のひらに押しつけた。
「人生、もらいっぱなしもないが、失くしっぱなしもないっつうことだ。そんなに欠けた気分に浸ることもないよ。俺がなんとかするから」
背中をばん、と叩いた。
「何かあったら連絡してくれ、じゃあな」
先生は名刺を手に黙っていた。月光がメガネのレンズに反射し、表情は読めなかった。
■
札を数える手が震えたが、顔に出したら負けだ。
「それで足りる?」
長いまつげを下げ、こちらを見透かすような目つきだ。
「ええ、金には文句言わない主義なんです」
金を茶封筒に収め、無造作に懐に突っこんだ。
「必要経費については、今回は電車賃とラーメンだけだったし、負けときましょう」
正面に座っている女は、ふっと鼻で笑った。体にぴったりとした薄い夏のセーターを着て、しっとり脚に貼りつくパンツをはいていた。体の線に相当自信があるらしい。
サングラスをしているべきだった。
革張りのソファの上で俺は腰を浮かしたが、改めて座りなおした。上目遣いになり女を見る。
「ゆきちゃんは?」
「今、学校」
女の後ろには子どもの絵がモダンな額に入ってかけられている。現代画壇の抽象画にも見えないこともない。シンプルなリビングにしっくり合っていた。子どものいる家にありがちな、べたべたした生活感はまるで感じられない。
「帰ってきたあとの様子はどうです。しょんぼりしてるとか、へんにはしゃいでいるとか、不自然な感じはありませんか?」
女はテーブル上のマグカップを取り上げた。ブラックコーヒーがなみなみ入っている。
「あの子、そういうとこ氷室にすごく似てる。表情というものがほとんど見えない。前も、後も。変わりがないって言えば、ないんだけど」
「夜、一人で泣いているってことも?」
女は肩をすくめただけで、コーヒーをすすった。
自分もカップを口に持っていこうとして、ふと止めた。
「いや、待て待て、この場で、こんなことは言えないな」
「何」
「えっと、その、これは俺の独り言」
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