45人が本棚に入れています
本棚に追加
「譲次、妬いてるの?」
二人は同時に立ち止まった。
大きな雨粒が傘にあたって音を立てている。
傘を持つ手に彼女の手が重なった。
「まさかね」
彼女はにっと歯を見せ、さっさと歩き出した。
重なった手に引きずられるようについていく。
「一号ってば、あたしのことなんて女として見てないもん。小野バアに負けてるの、あたし」
日に焼けた横顔を喰い入るように見つめた。手は握られたままだ。
「でも、やつにその気があったら?」
やっと出た声は震えていた。
彼女はとってつけたように声を立てて笑った。
「あり得ない、あんな会う女会う女全員に声かけるやつ。あたしって結構ノーマルなんだから」
弟の真似を忘れていた。
「本気じゃない……そんなのすぐにわかるだろ」
彼女はゆっくり瞳を上げた。
「譲次、どうしたの? 今日はなんだか変」
再び、手を振りほどいていた。傘の柄を彼女に押しつけ、
「俺、寄るとこあっから」
雨の中へ飛び出した。
大きな傘を持った彼女は、ぽつんと残された。
いつもよりずいぶん小さく見えたが、俺は背中を向け歩き出す。
あっという間に雨が髪の中まで染みとおり、前髪を伝い顔じゅうを這った。
彼女が声を張り上げた。
「ひぐっちゃん!」
傘を振り捨て、こちらに駆けくる。制服の赤いネクタイの結び目をつかまれ、前かがみの格好にされた。半開きの口に、柔らかな温かいものが押しあてられた。
一瞬だったのか、長い時間だったのかわからない。
唇を離し、彼女はほっと息をついた。
「背、また伸びたみたい」
うるんだ目と、真っ赤な鼻と頬がすぐ近くにある。唇が言葉の形に動く。
そこでいつも、電波が乱れるように音も映像もぶつ切りになる。
「ひぐっちゃんの はなは あかく ないね……」
俺は顔を押さえ、彼女から離れた。そのまま、つんのめって駆け出した。
夜遅くなり、雨は霧に変わった。
体の芯まで濡れそぼり、骨が氷に置き換わったみたいだ。あごや耳や指の先からぽたぽた水が垂れ、玄関のたたきを濡らした。
家の中は暗く、人の気配はなかった。
とっくにわかっている。この日、弟が腹膜炎を起こし緊急に手術になった。母親はあわてて病院にすっ飛んでいったあとだ。
最初のコメントを投稿しよう!