第1章

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 カップを両手ではさんだ。女の表情をうかがいながら、できるだけ軽い調子で言った。  「子ども本人が望むなら、これからも父親に会わせたほうがいい……かなって」  女の視線が強まる。  とたん、言葉が喉の奥でからまった。  「いや、あの、これは……多くの先例に基づいてまして……」  ごまかすように咳をした。  女はあごを上げ、うんざりした表情になった。  「私は再婚するの。あの子には新しい父親ができる。父親が二人いるなんて、不自然でしょ。新しい環境にうまくなじめなければ、かわいそうなのはあの子なの。その点、氷室とも話し合って合意したんだから。よってたかって私を悪者にしないで」  子どもみたいに、ちょっと口をとがらせた。  俺はマグカップを置き、鼻の横をこすった。口の中で言葉をこねるようにつぶやく。  女は眉をしかめた。  「なんて?」  俺は自分の前髪をかきまわし、今度ははっきり言った。  「再婚なんてやめろよ。あんたみたいにいい女が、もったいない」  指の間から反応をうかがう。  女は怒りはしなかった。鼻でかすかに笑った。  「大きな独り言だこと」  「そうですそうです。家族の問題だ。他人の俺には関係のないことでした。あの」  ソファから立ち上がり、女に近づいた。  「どうしたの?」  落ち着かない素振りで、女もその場に立ち上がった。  思ったより顔が近くなり、お互い一歩引いた。緊張にじかに触れるようだ。  しかし女は、俺を恐れても嫌がってもいない。  「あの……」  女から目をそらせ、わずかに息を切らせた。  「……トイレ貸してください。もれそうだ」  ため息が耳をかすめた。  「その向こう、一番近いドアよ」  同じようなドアがいくつも並んでいる。  リビングから廊下に出て、一番近いドアはなるほど、女が言うとおりトイレだ。  リビングドアのガラスを透かせ、女をうかがう。そっぽを向きコーヒーを飲んでいる。  その隣のドアを開ける。  青い壁紙の子ども部屋だった。モデルルームのようにきちんと片付いている。勉強机と本棚とベッド。シーツの隅には空色のパジャマがたたんで置いてあった。  あの子が、ひっそりここに眠る様子が目に浮かぶ。寝息まできっと遠慮がちに違いない。さっと目を走らせてから扉を閉めた。  その向かいが女の寝室だろう。リビングを気にしながらもドアを開けた。
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