第1章

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 女は廊下に出、玄関に向けさっと手のひらを開いた。  「じゃあ、お帰りの時間ね。お大事に」  何を言おうと勝てる自信はない。  コートのポケットに両手を入れたまま、スニーカーをつっかけ、かかとを踏み外に出た。   〇  先に気がついたのは、あんなだった。  「あれ? きゃあ!」  うれしそうな顔で立ち止まって、ぶんぶん手を振る。  駅前の、人でごちゃごちゃ混んでいる中に、あたしもきたないコートの男を見つけた。  両手をポケットにつっこんだまんま、ひぐっちゃんはあたしらを見た。  「今、お帰りですか? お嬢様方」  くつをひきずって、だらしない歩き方で近づいてくる。  あたしはちょっと目をしかめた。  「今日は格別にお美しいですな、あんな姫」  「樋口さんもことのほか、カッコいいですわ」  「そりゃどうも。しかし、その件は郵便ポストが赤いがごとく自明です」  あんなは顔を赤くして笑った。  「でも、くつのかかとは、ふまないほうがいいと思います」  ひぐっちゃんは素直にスニーカーをちゃんとはいた。けんけんと、つま先を道に打ちつける。  あんなが聞いた。  「今日は、お仕事ですか?」  ひぐっちゃんは顔を上げた。サングラスがきらっと光る。  「うん……まあね、仕事っちゃあ、仕事だな」  「そうなの、とってもえらいですね」  あんなはランドセルの横にぶら下げたポーチから、いちごみるく味のあめをとりだした。  ひぐっちゃんは両手にどっさりもらって、よろこんだ。  「おお、さんきゅう」  いつもお腹をすかせてるのを、よく知っているのだ。     あたしは子犬みたいに、鼻をくんくん動かした。  「病院のにおいって、けっこう好き」  聞こえたはずなのに、となりのひぐっちゃんはなにもいわなかった。  駅前で会ったときにちらっと思ったんだけど、サングラスをとったらやっぱりそうだ。目の下はぼんやり黒くて、ほっぺはそげて、顔色がヘンに白い。どこから見てもりっぱな病人だ。  「だいじょぶ? ご飯食べてないの?」  あたしはひざの上にランドセルをのせて、待合室のベンチにすわっている。  病院は満員だ。世の中に、病気やケガの人ってたくさんいるんだなあ、って思う。  あんなはすごく残念がってたけど、ピアノの日だったので来られなかった。  あたしだけ、そのままついてきた。
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