第1章

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 医師は笑った。  「何それ、つまんない」  俺は一つ咳をしてから、真面目に言った。  「好きな人から、厳しく否定されたときに見ます。そして、その夢を見てさらに落ちこむんです。もう、デフレスパイラル」  医師は首から聴診器をはずした。  「そうなの。でも薬で胸が楽になったら、見ないかもしれないじゃない」  「そうでしょうか?」  目を真っ直ぐのぞきこんだ。  白衣を着て髪をきりりと一つに束ね、自分の仕事場にいる彼女は、私服のときより数倍自信に満ちている。手にしたボールペンをくるんと回した。  「樋口さん、あなたがこの病院を選んで、この曜日のこの時間帯に受診したのは、単なる偶然だと解釈するわ」  「そんなわけないじゃないですか」  「じゃあ、私につきまとってることになりますね」  「僕、今すごく弱っています。そんなに厳しいこと言わないでください……やっと会えたのに」  女はPCの画面に向かった。  「心療内科を紹介しましょうか?」  「僕じゃ、やっぱりダメですか?」  彼女はかすかに背中を気にする素振りになった。  ナースたちの姿は見えないが、声はばっちり通っているに違いない。  プリンターがじーと鳴る。  俺は声をひそめ、顔を近づけた。  「今度、飲みに行きませんか? 先生」  「お酒はダメよ、あなた」  打ち出されたシールをカルテに貼り、一式をクリアファイルに挟みこんだ。  「じゃあ、コーヒーでも。コーヒーならいいでしょう?」  女は答えず、ぐいと鼻先にファイルを突き出した。  「これに保険証挟んで会計に持って行きなさい。保険証は持ってるんでしょうね? 次回は一ヵ月後。はいお大事に」  ファイルを受け取り、じっと床に目を落とした。  「その頃に、僕はいないかもしれません」  女はデスクに頬杖をつき、あからさまなため息を吐いた。マウスをとんとんと、人差し指で叩く。  「都合が悪いなら、ほかの日にするけど」  「いえ」  立ち上がり、力なくドアノブをつかんだ。  「人間って、一月も寝なければきっと死にますよね。そしたら、少しは僕のこと思い出してくれるかな」  女がふきだした。きれいな指が口を押さえた。  「ばかじゃない、あんた」  「今度、偶然会ったら、飲みましょう」  返事は聞かず、するりと部屋を出、ドアを閉めた。   ○  「お待たせ」  顔を上げると、ひぐっちゃんが見下ろしていた。
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