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いつ殴られてもいいように、ひじはガードに回してある。
「『ラ・マン』のスタンプカードがいっぱいになったんだ。ご休憩が一回タダ。結構、これお得じゃね?」
彼女は肩を下げ、大きく息を吐いた。
「あんた、制服着てんじゃん、公務執行中なんでしょ」
「そこかよ」
ぐいと首を伸ばして、彼女に回りこむ。
「今なら、手錠と警棒を使わせてやるぜ。どうよ、そそられるっしょ。ドSだもんなあ、お前」
彼女は笑いも怒りもしない。眉がほんの少しゆがんでいる。夕日の最後の欠片が頬を照らし、今にも泣き出しそうに見えた。
二人は同時に立ち止まった。
俺は下腹に力を込め、低い声を絞った。
「別れろ、鏡子」
彼女は血の気の失せた顔を上げた。髪が風に巻き上がり、唇にまといつく。
俺は自転車のハンドルをねっとり握りしめる。
「あいつはやめてない。もともと浮気なんてできない性質だ。本気なんだよ。俺、二人のあとをつけたし、女の部屋にも入った。物証ならごまんと用意してやる。お前、慰謝料がっぽり取れるよ。だから、別れろ、な」
大きな黒目が光って揺らいだ。俺の知っている彼女は、凶暴で意地悪でがさつで誇り高く強い。こんなところで泣く女じゃない。
「知ってる。あたし、全部知ってる」
俺をよけ歩き出した。そっぽを向き、ニットの袖先を顔に押しあてた。知らない女みたいに、小さくか細くみじめに見えた。
追いかけながら、片手でタバコをポケットから引っぱり出しくわえる。
あたりはすっかり暗くなった。
冷たくなった鼻先に、ライターの炎が大きな音を立てた。
「殺してやる」
喰いしばった歯の隙間から煙を吐くと、全身に震えが走る。
「譲次も女も、俺が殺してやる。お前と同じくらい苦しい思いさせてから、殺してやる」
冷たい手が、俺の手を握った。
「大丈夫だから、丈一」
濡れた赤い顔を上げ、彼女は俺の手を引っぱり導いた。手のひらは、やさしげな色のニットに、その下のやわらかな腹に押しつけられた。限りなく温かい。
手はぴりぴりしびれ、俺は立っているのがやっとだ。
「ここにね、」
彼女は、俺のよく知っている顔でにっと笑った。
「あかちゃんいるの」
制服の黒いネクタイの結び目をつかまれ、前かがみの格好にされた。自転車が大きな音を立て横倒しになった。
彼女は、俺の口からタバコを抜きとった。
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