第1章

76/114
前へ
/114ページ
次へ
 いつ殴られてもいいように、ひじはガードに回してある。  「『ラ・マン』のスタンプカードがいっぱいになったんだ。ご休憩が一回タダ。結構、これお得じゃね?」  彼女は肩を下げ、大きく息を吐いた。  「あんた、制服着てんじゃん、公務執行中なんでしょ」  「そこかよ」  ぐいと首を伸ばして、彼女に回りこむ。  「今なら、手錠と警棒を使わせてやるぜ。どうよ、そそられるっしょ。ドSだもんなあ、お前」  彼女は笑いも怒りもしない。眉がほんの少しゆがんでいる。夕日の最後の欠片が頬を照らし、今にも泣き出しそうに見えた。  二人は同時に立ち止まった。  俺は下腹に力を込め、低い声を絞った。  「別れろ、鏡子」  彼女は血の気の失せた顔を上げた。髪が風に巻き上がり、唇にまといつく。  俺は自転車のハンドルをねっとり握りしめる。  「あいつはやめてない。もともと浮気なんてできない性質だ。本気なんだよ。俺、二人のあとをつけたし、女の部屋にも入った。物証ならごまんと用意してやる。お前、慰謝料がっぽり取れるよ。だから、別れろ、な」  大きな黒目が光って揺らいだ。俺の知っている彼女は、凶暴で意地悪でがさつで誇り高く強い。こんなところで泣く女じゃない。  「知ってる。あたし、全部知ってる」  俺をよけ歩き出した。そっぽを向き、ニットの袖先を顔に押しあてた。知らない女みたいに、小さくか細くみじめに見えた。  追いかけながら、片手でタバコをポケットから引っぱり出しくわえる。  あたりはすっかり暗くなった。  冷たくなった鼻先に、ライターの炎が大きな音を立てた。  「殺してやる」  喰いしばった歯の隙間から煙を吐くと、全身に震えが走る。  「譲次も女も、俺が殺してやる。お前と同じくらい苦しい思いさせてから、殺してやる」  冷たい手が、俺の手を握った。  「大丈夫だから、丈一」  濡れた赤い顔を上げ、彼女は俺の手を引っぱり導いた。手のひらは、やさしげな色のニットに、その下のやわらかな腹に押しつけられた。限りなく温かい。  手はぴりぴりしびれ、俺は立っているのがやっとだ。  「ここにね、」  彼女は、俺のよく知っている顔でにっと笑った。  「あかちゃんいるの」  制服の黒いネクタイの結び目をつかまれ、前かがみの格好にされた。自転車が大きな音を立て横倒しになった。  彼女は、俺の口からタバコを抜きとった。
/114ページ

最初のコメントを投稿しよう!

45人が本棚に入れています
本棚に追加