79人が本棚に入れています
本棚に追加
14 人にすべてをまかせるな
外は雨。
洗濯物は乾かず。
味付け海苔は半日で湿気り、庭の紫陽花は青みを増していく。
先生は浮かない顔で、窓辺に立っていた。雨が打ちつける窓ガラスの、その先の景色をぼんやりと眺めている。
深窓の令嬢とはほど遠い。外から見れば、水槽の中のアザラシ。
10分ほど微動だにしないから、カピバラでもいいか。いや、太りすぎたナマケモノが、ぴったりくるかな。目を伏せて、ふぅ~と出した鼻息は、カバ並みか?
眉間に小じわが寄り、ぼってりした口元は、ギュッと堅く閉じていた。
それもそうだろう。
「お姉ちゃんって、仕事してないもんね」
妹の何気ないつぶやきから始まったののしり合いに、怒りがおさまらないのだ。終了のゴングが鳴って10分以上も経つのに、血圧が一向に下がらない。
日曜日の朝、雨が降っているにも関わらず、妹は実家に1人でやって来た。
午後から夫と、デパートへ買い物に行く予定だったらしいが、大雨で外出が面倒になった旦那と、行く行かないでケンカになったらしい。
だから妹は、すこぶる機嫌が悪い。腹に爆弾を抱えたような状態で来た。日頃の家事ストレスもあるから、怒りをぶつける気満々だったのだ。
ちょうどお昼どき、前日の残りカレーを食べながら、先生は1人でNHKを見ていた。
過労死のニュースが流れ、
「絶対、あたしにはないわ」
自嘲気味につぶやくと、キッチンに入ってきた妹が、さっきの言葉を発した。
仕事してないもんね・・。
このとき、姉の心にチクンと針が刺さったとは、微塵も思っていないだろう。
ゴールデンウィークのとき、妹はチーズケーキを買ってきたけれど、そのときも、
「お姉ちゃんには、小さすぎるかも・・」
上品なサイズのケーキを見せて言った。ホテルのバイキングに並ぶようなプチケーキと、さして変わらない大きさ。
先生にすれば、お前は大食いだから、象が食うような特大のケーキがお似合いだと、遠回しに言われているような気分になる。
しかし、そのときの妹に、さほど悪気はない。トゲ付き言葉が、無意識に口から出てくるだけ。
毒を吐く似たもの姉妹。
先生もわかっているから、いちいち反応はしないけれど、
「いいよね、お姉ちゃんは3食昼寝付きで・・ 」
今日のイヤミは、すでに喧嘩ごし。一度ドッカーンと、大噴火したいのかもしれないな。
なんせ、子供がいると大変だ。しかも、妹の場合は男の子。大型犬2匹を、放し飼いにしているようなもんだ。だから世話に追われて、体の休まるときがない。
中学1年になった息子はサッカー部に入り、毎日汗まみれ。小学4年の息子も、やんちゃ盛り。遊んでばかりで汗まみれ。
洗濯機を回しては干し、また回しては干す、という毎日。
そして、食う。
学校から帰ってくると、すぐにプレ夕食が始まる。兄はカップラーメン、弟は菓子パンが定番だ。
もう2、3年もすれば、2人そろってキャベツの1玉ぐらいは、ペロリと食うだろう。野太い声になって、肉の奪い合いも始まる。
いや、すでに食卓戦は始まっているかもしれない。
栄養バランスを考え、食事を作るのもひと苦労だ。
せめて子供に、自分の部屋ぐらいは掃除をするようにしつけていなければ、主婦業にほぼ定休日はない。
「自分で選んだ道でしょうが、結婚は・・」
先生の目が細くなった。唇がわずかに開いたから、嫌なら離婚すればと、言いたかったに違いないが、その言葉をグッと呑み込んだとみた。
その代わり、
「あたしは、結婚しないことを選んだの」
正しい選択であるかのように、声を張って主張する。
出た出た。結婚できない女が、悔しまぎれに言うセリフ。できないとしないでは、大きく違うもんな。それこそ、女としてのプライドに関わる。
「まぁまぁ、いいんじゃない? 独り寂しく老後を生きれば・・」
妹が言い返した。
おいら、居間の隅まで後退した。2人の顔が、金剛力士像みたいで怖い。
「家族がいるからって、幸せとは限らないでしょ? 和気あいあいとした家庭なんて、幻想だから・・。そんなものは、NHKの朝ドラだけ。殺人事件だって、犯人はたいがい身内」
話が飛躍しすぎだろ。
「保元の乱だって、兄の上皇と弟の天皇という、兄弟の争い。武田信玄だって、父親を追放して、家督を継いだ。結局、身内が一番恐ろしいのよ」
「・・」
「相続の話になったら、みにくい骨肉の争い。家庭を持つってことは、将来起こるであろうトラブルを、自ら進んで、抱え込む覚悟をすることだから・・」
妹が、若干引いてるな。顔の筋肉が、すっかり固まっている。
妙なたとえを出してくる姉を相手にすると、逆に、喧嘩をふっかけてきた自分がバカだったと、冷静さを取り戻す。
「あんただって、子供が離れたあとは夫の世話。介護が待ってるかもしれないから・・。あんたの人生、人の世話して終わりだわ」
妹が肩の力を抜くように、はぁ~と息を吐き出し、
「今井くんが気の毒だわ」
ポツリとつぶやく。
「なんで今井くんが出てくるわけ?」
「だって、結婚したいって言ったんでしょ? どこがいいんだか・・。目が腐ってんじゃない? それとも、賞味期限の切れたものが好きなの? 体重と暇だけある女の、どこがいいんだか・・」
確かに、フェロモンの出ない女なんて、世間の男は見向きもしないけれど、今井の場合は、偽装だから・・。
「仕方なしに付き合ってるのか、それとも、頭のネジが1本抜け落ちてるのか。ボランティア精神にあふれてるわよね」
「あんたが、今井くんのことを悪く言う筋合いはないから・・」
久しぶりに、声を荒げる先生を見た。
そのあと、ドンとわざと大きくドアを閉めた。仕事部屋にこもり、窓辺で何度も、腹に溜まった怒りを、ハーっと吐き出す。
そのあと、雨に打たれる青い紫陽花を、ジッと見つめること15分。血圧が正常値に戻ったところで、ワークチェアに腰を下ろすや、パソコンの電源ボタンを押す。
妹とのやり取りを、きれいさっぱり流したいのか、ペットボトルのコーラをがぶ飲みした。
「ゴゴッ・・」
ゲップが豪快だ。ブタの鳴き声だな。
そりゃあ、男は来ないわ。契約彼氏とはいえ、今井はエライ。
『週4日のカレーにげんなり』
(30代・男性/奈良県)
子供に手がかからなくなった妻は、将来の学費や老後のことを考え、パートタイマーとして働き出しました。
フルタイムの仕事なので、手の込んだ夕食は作りたくないのか、週4日のヘビーローテーションで、カレーライスが食卓に出てきます。
それが5年も続き、正直、うんざりしています。好きだったカレーが、嫌いになりそうなくらいです。
最近、子供は、
「おふくろの味は、ハウスのバーモンドカレーだね」
と、言うようになりました。
違う料理も食べたいとほのめかしたつもりなのですが、回りくどい言い方をしたせいか、市販の風邪薬並みに、効き目はありません。
どうしたら、せめて週1に抑えることができるでしょうか。「自分で作れや!」
先生は機嫌が悪いから、パソコンに向かって毒を吐く。
今回はそれで解決。と、いきたいところだけれど、さすがに本音は書けない。
これ以上、仕事を失うわけにはいかないのだ。
先生は、ぷっくりした腹を意識して引っ込め、唇を丸くして、長く息を吐き出す。
怒りは6秒こらえれば、収まるそうだ。テレビの情報番組で言っていた。
「家事に子育て、奥さんはとてもがんばっています。家事労働を給料に換算すると、200万円とも300万円とも言われているそうです。サラリーマンの平均年収が420万円ほどですから、家事はそれなりの労働。加えて、フルタイムで働いているとなれば、一日中働きづめで、疲れはたまる一方ではないでしょうか。どのような仕事かわかりませんが、立ちっぱなしかもしれません。しゃべりっぱなしかもしれません。暇すぎて、あくびのしっぱなしということもあります」
そんな仕事が存在するのか?
問うつもりでニャーと鳴いたら、先生もおいらの言いたいことがわかったのか、
「あるのよ、それが・・」
と言う。
スーパーへ行く途中の道で、モデルハウスの場所を示した、矢印の看板を持つ男性を見たそうな。ただそれだけのアルバイト。
確かに、あくびしか出ない。スマホがなければ、死にそうだ。
「私も家事をしていますが、それはそれは大変ですよ。富士山に登るくらいです。ドーバー海峡を、泳いで渡るくらいヘロヘロです」
経験のないことで例えるな。
そもそも、まともに家事をやっていない。
「食事は、手を抜ける唯一の家事ではないかと思います。私は毎朝、パン焼き器で、焼きたての食パンを食べていますが、材料をセットするのが面倒になったときは、迷わず店で買ってきます」
日曜日のブランチみたいな、おしゃれ感を出すな。
それ以前に、パン焼き器を見たことがない。
いつも買ってくるのは、賞味期限が迫った、3割引のシールがついた食パン6枚切り。しかも、定価69円の3割引だぞ。
「それにしても、あなたも子供も、相当我慢強いですね。私も我慢強いとよく言われますが、さすがに大好きなカレーでも、週に4日では飽きてしまいます」
だろうね。
食べることに貪欲な先生からすれば、アンビリーバボー。
「料理をしない者は、文句を言ってはいけない。そう思って、あなたは5年もグッとこらえてきたのでしょう。不思議なのは、なぜ週に1回でも、自分で作ろうとは思わないのでしょうか?」
確かに、受け身だよな。
「キッチンに立つと、食材を散らかし、鍋を丁寧に洗わず、シンクの周りを水浸しにし、結局奥さんから、料理がまずい上に、二度手間なのよと、ののしられた恐怖体験でもあるのでしょうか?」
それは、先生のお父さんだな。
「どうしても、カレー以外が食べたいのであれば、料理男子になる必要はなく、スーパーなどのお総菜や冷凍食品、レトルト食品に頼ればいいと思います」
料理下手が作るより、よっぽどうまい。
それに、手抜きも息抜きも、人生には大事なことだから・・。
「レンジでチン。それだけで、バラエティー豊かな食卓になるでしょう。協力して作るという手もあります。そうなれば、きっと奥さんも喜んでくれるはず。夫婦円満の秘訣ですよ」
わかったことを言うな。
ニャーと鳴いたら、何が悪いと言わんばかりににらまれた。
最後の文字を変換するとき、Enterキーをバチンと中指で叩き、
「ふん、だから結婚なんて、面倒なのよ」
と言ったものだ。
最初のコメントを投稿しよう!