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2 一歩も踏み出せない勇気
野良猫だったおいらが、先生の飼い猫として居つくようになったのは、去年の冬。ちょうど、今の時期だ。
4年ぶりに大寒波がやって来て、埼玉には珍しく、大雪が降った日の朝のこと。
シッポがちぎれるほど寒くて、玄関前にあった梅の植木鉢のそばで震えていたら、先生が抱き上げてくれた。
あのときのぬくもり、体温の高さは忘れない。カンガルーの袋の中かと思ったくらいだ。
とにもかくにも、先生が日頃の運動不足解消も兼ね、出入り口ぐらいは雪かきをしようと、殊勝な心構えを起こしてくれたおかげだ。
銀世界の中に黒い塊があれば、嫌でも目につく。
黒いというだけで、ほかの色の猫より、人間から受ける扱いは悪いけれど、このときほど、黒でよかったと思ったことはない。
白猫だったら、雪と同化して完全にスルー。
あのときはおいら、本当に凍死するかと思った。
オスの野良猫として、縄張り争いの中でたくましく生きていくつもりだったけれど、積雪25センチはさすがにつらい。
自然の猛威に負けた。
翌日の最低気温は、氷点下4度まで下がり、水道管も破裂したというから、先生が助けてくれなければ、おいらは内蔵破裂を起こしていたかもしれない。
先生は恩人だ。
ただ、犬と違って、猫は恩を忘れる。忘れるけれど、仇で返すような非情なマネだけはしないつもりだ。
人とおこたのぬくもりを知るともう、野良には戻れない。マグロの刺身とチュールの味を覚えると、野生にかえる気はしない。
ということで、おいらはペットとして生きることになった。
付いた名前が、“クロ”だ。
見たまんまで、何のひねりもない。
黒で連想するものは、ほかにもあるだろう?
炭とか、おこげとか・・。
イカスミとか、カラスとか、黒豆とか・・。
んん・・。
考えたところで、ろくなものが出てこなかった。
もちろん、考える時間の長さと、愛情の深さは比例しない。
・・と思う。
2人掛けのソファーで丸まっていると、先生が仕事部屋に入ってきた。
今日の装いは、ヤンキーしか着ないどぎつい紫色のジャージ。その上から、ポリポリと尻をかいている。関取用かと思うようなマグカップを持っていた。妙に落ち着くこの香りは、豆から挽いたコーヒー。
ブラックだ!
いいね。英語のほうが、何となくクールに聞こえる。せめて、名前をブラックにしてほしかった。
先生はパソコンの電源を入れたあと、立ち上がるまでの間に、新聞社の担当がわざわざ持ってきた相談者の手紙を読む。
目ヤニが付いていた。
今朝も鏡を見ていない。『人の頼んだ料理に目移り』
(20代・女性/埼玉県)
外食をすると、人の頼んだ料理がおいしそうに見え、どうしても、それが食べたくなります。
バイキングや回転寿司なら、相手が食べておいしいと言えば、あとで自分も同じものを取ることはできます。
しかし、パスタやラーメンのような、1人1皿でくる料理は、もう1品頼むわけにはいきません。
かといって、気が小さいせいか、少し分けてくれとは言えません。
仲のいい友達でも、小皿に取り分けようとは言えませんし、会社の上司や同僚だと、絶対に無理です。
どうしたら、自分の注文した料理を、気持ちよく食べることができるでしょうか。 そもそも、これが悩みなのかどうか・・。
先生は得意分野の食べ物だから、ぼってりした唇の端を、うれしそうにキュッと引き上げた。パソコンの左横に手紙を置くと、マウスをカチカチとクリックする。
それにしても、相談者は20代なのに、今どき手紙なんて珍しい。新聞社にメールを送れば、便せんも切手代もかからずにすむのに・・。
ペン字でも習っていたのか、なかなかの達筆だ。
文章の最後に、
“毎回、楽しく拝読しています”
と、ひと言添えてあった。
先生の顔がにやけていたのは、これか。
「隣の芝生は青く見えるものです。その気持ち、よくわかります」
コーヒーを一口すすると、軽快にキーボードを叩いた。
「私もよく、知人と会食をしますが・・」
ここまで読んで、おいらはニャーと鳴いた。
嘘を書くな、嘘を・・。
食料の買い出しで、スーパーやコンビニには行っても、知り合いとランチやディナーに行ったという形跡はない。
おいらがここに来たときから、化粧をして外出したことはない。
それとも、おいらの知らない華やかな時代があったのか?
昔をなつかしんで、書こうとしているのか。
「相手の頼んだ料理と、同じにすればよかったと思ったことが何度もあります。ラーメン屋に行けば、チャーシュー麺がおいしそうに見え、ファミレスに行けば、チーズハンバーグのセットにすればよかったと、テーブルの下でスカートを握りしめ、唇を噛んで後悔します。どうしてこうも、人のものがほしくなるのでしょう」
病気だろ? 食い意地という・・。
治りはしない。
会食という、いかにもビジネスをしているような言い方をしたなら、せめてホテルのレストランとか、高級フレンチとか、カウンターしかない寿司屋あたりで、見栄を張るべきだった。
どうしてここは、しれっと嘘をつかなかったのか。
恐らく、敷居をまたいだことがないから、書きようがなかったのだろう。
庶民派エッセイストだもんな。
外食1回は、1500円以内を守っている。金欠病にかかっているから・・。
「つくづく、食べ物でよかったと思います。人の料理がおいしそうに見える。ほしくなる。料理を彼氏と置き換えてみてください。その先は、修羅場しかありません。(笑)」
笑えないし、置き換える意味もわからない。
「そもそも、人のものがほしくなるとは、どういう心理なのでしょうか。それはあなたに劣等感があり、自分に自信がないからではありませんか?」
先生は、ネットで調べたことを書き出した。
「人の頼んだ料理がおいしそうに見えるのも、心の奥底に、自分の下した判断に対する、自信のなさがあると思います。あなたはもしや、今まで自分の決めてきたことを、両親にことごとく、否定されてきたのではありませんか? それで、自信のない性格に育ってしまったのでは・・?」
その推理が、当たっていればいいのだけれど・・。
「たとえば、両親と回転寿司へ行ったとき、大トロの皿をつかんだら、即座に手の甲をパチンと叩かれ、気がつけば、目の前は赤身の皿になっていたことはありませんか? あるいは、玉子やカッパ巻きだったかもしれません。スーパーで、食べたいと思った焼き肉用の黒毛和牛をカゴに入れたら、精算のとき、カゴから忽然と黒毛和牛が消え、代わりに、安価なアメリカ産の牛肉になったことはありませんか?」
それは単に、お金の問題だろう。
自分の子供時代を書いているのではなかろうか。
「意見が通らないという、悲しすぎる経験を積み重ねれば、自己主張をすること自体、むなしく感じるでしょう。仕事もそうですよ。企画を出しても、握りつぶされる。それが2、3回も続くと、怖くなって何もできなくなります。自信を失っていくものです」
自分の話か?
「人の企画やアイデアがうらやましくなり、つい横取りしたくなります」
それは盗作の第一歩。
「しかし、少し企画を分けてくださいとは言えません。私も気が小さいので・・」
食べ物と企画を一緒にするなよ。
ただ単に、食い意地の張った、気の小さい女性の悩みごとじゃないか。
「自信を持つしかありません。ある程度の図々しさも、世渡りには必要ですよ。思い切って、少し分けてくださいと言ってみませんか?」
いやいや、それができないから、相談しているんじゃないか。
こうなったら、相手と同じものを注文すればいい。頼んだあとは、前後左右にある別のテーブルも見ない。
それか、自分の料理は、相手が選んでくれたものだと思い込む。
もしくは、みんなと料理を共有する店に行けばいい。
鍋とかピザ、焼き肉に居酒屋・・。
テーブルを回して、自分の食べる分を取り分ける中華料理だっていい。
というか、相談者は先生と同じ埼玉県人だから、“そこらへんの草”でも、食ってろ!
先生が爆笑していた映画で、そう言ってたぞ。
「一歩踏み出す勇気。それが自信につながります」
スランプの先生に、おいらが言いたい。
「ちなみに、私も相談者と同じで、少し分けてほしいとは、口が耳元まで裂けても言えません」
昨日、新聞社の担当が買ってきたローソンの肉まんを、人の分まで強引に奪ったのは誰だ?
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