79人が本棚に入れています
本棚に追加
4 あきらめろ! 楽になる
『オリンピックの夢が捨てられない』
(40代・男性/愛知県)
高校まで、器械体操一筋でがんばってきました。
器具も満足に整っていない環境の弱小体操部だったので、全国大会に行くほどの成績を収めることはできませんでした。
しかし、小学生の頃からオリンピックに憧れ、代表選手になることを夢見て、何度も捻挫をしつつ、一生懸命練習に励んできたつもりです。
今でもオリンピックを見ると、
「どうして俺は、その舞台に立っていないのか」
夢に届かなかった悔しさが蘇ります。
時々、ジャパンのユニフォームを着ている自分の夢を見ます。日の丸を背負う重圧に耐えながらも、笑顔でマスコミ対応をする夢を見ます。空港で、荷物を載せたカートを押しながら、大勢のファンに片手をあげて応える夢を見ます。
五輪のしがらみと、どう折り合えばいいでしょうか。 回答は簡単だ。
そんな大それた夢は捨ててしまえ。
楽になる。
代表選考会に落ちたというなら話はわかるが、全国大会にも行けない実力で、オリンピックを語ってはいけない。
なんだかんだ言って、みんなに注目されたいだけじゃないか。
こういう奴はきっと、選手を引退したあと、スポーツキャスターやコメンテーターとしての第二の人生まで、夢に見ているぞ。
副業で、スポーツジムを経営して、がっぽり儲けている夢まで見ているぞ。あわよくば、女優やアイドルと、結婚までしている夢を見ているに違いない。
ねぇ、先生。
マウスの横で、おいらがニャーと鳴くと、先生はワークチェアに腰かけたまま、腕を組んでいた。うなだれたり、背もたれに寄りかかったり・・。
そのたびに、椅子がギーギーと悲鳴をあげる。
椅子のためにも、もうちょっと体重を落としたらどうだ。尻の肉が、はみ出しそうだぞ。
先生がジッと思案しているのは、悩みをどう解決するかではない。目の前の塩大福を、緑茶と一緒に食べるべきか、それともコーヒーがいいかを考えている。
間違いない。
分厚い唇を突き出して、ウ~とうなりながら、念力を送るかのように塩大福を見つめている。
机に手をついて、やおら立ち上がると、キッチンへ行った。
コーヒー豆をガーガーと、ミルで挽く音が聞こえてくる。
やっぱりいつもの通り、ブラックだ。
好きなんだな、ブラックが・・。
クロが・・。
仕事部屋に戻ってきて、ペロリと3つも塩大福を平らげ、白い粉を口元につけたまま、キーボードを叩く。
「オリンピックを目指していたなんて、すごいですね。私は、ミスユニバース日本代表を目指していました」
そんな大それた文章が、パチパチ音とともに画面に表示される。
おいらがニャーと鳴いたら、さすがにこれはやりすぎたと思ったのか、一旦Deleteキーを押した。
「オリンピックはオリンピックでも、数学のオリンピックを目指していました」
図々しく話を盛り、
「やっぱりこっちがいいかな?」
数学を地理に変えた。
どっちだろうが、回答にはどうでもいい件だ。
五輪を目指すと言うぐらいなら、誰にだってできる。ほらを吹くのは自由だと、言いたいのだろう。
東大だって、目指すと口に出すだけなら、分数計算でつまづいている小学生にもできる。
「ずっと心に引っかかっていたのなら、目指してはいかがですか? あなたの夢をあきらめないで・・」
そんな歌詞があったなぁ。
先生が、音程をはずして歌っている十八番の曲だ。
絶対、これは自分に言い聞かせている。
悩み相談の仕事がなければ、完全にニート。もしくは、引きこもりといっていい。
フリーランスといえば聞こえはいいが、右肩下がりのエッセイストは、そろそろどん底に落ちそうだ。
崖っぷちに立っている。福井の東尋坊、和歌山の三段壁よりも恐ろしい崖の上だ。
もうひと花咲かせたい。ベストセラーを出したい。そんな夢だけで、気持ちをどうにか前につないでいる。
仕事で食えないストレスを、がむしゃらに食うことで解消しているから、どんどん体重は増えるばかりだ。
せめて、塩大福は1つにしてほしかった。
あきらめるなと言うのは簡単だけれど、実際、相談者のハードルは雲の上にある。
老後に向かって助走を始める歳になって、まだ夢にしがみつこうとしているのか。そんなことより、もらえる年金の心配をしたらどうだ?
ガツンと言ってやれ。
「夢がないのは、食卓にパンがないのと同じです」
先生は続きをこう書いた。
えっと、これはどういうことだろう?
先生はパンが好きだから、食事にパンがないと寂しい。つまり、夢がないのは寂しいということか? だったら、そうストレートに書けばわかりやすいのに・・。
よく連載が続いているよな。
回りくどい言い方をするから、仕事が右肩下がりに減っていくんじゃなかろうか。
「そもそも、オリンピックに固執しているのは、今の自分に不満があるからではないでしょうか。何一つ、満足にやったと言えるものがなく、中途半端に終わっているからこそ、体操競技で輝いていた過去の自分を、引きずっているのではありませんか? のめり込む仕事や趣味があれば、今さらオリンピックに未練を残すことはないと思います」
おいらもそう思います。
「どうしても選手として出たいなら、体力より、技術やメンタルが問われる馬術やクレー射撃はどうですか?」
本当にすすめる気なんだ。
「何十年と、競技歴を重ねてきた選手と、戦うことになります」
習得してきた技術と、実戦での経験が、圧倒的に違うな。
「今すぐ取り組む気持ちはありますか? 間違いなく、お金がかかります」
一体、いくらかかるんだろう?
想像もつかない。
先生がネットで調べるかと思いきや、そのまま回答の続きを書く。
「あなたが独身なのか、家族がいるのかわかりませんが、オリンピックを目指すなら、それなりの犠牲を払うことになります。仕事と並行して、トレーニングができますか? 休日に、友人や家族と出かけることもできないでしょう。食事制限をすることになるかもしれません。そんな状態に、40を過ぎて耐えていけるでしょうか。周りは理解を示してくれるでしょうか」
たまには、まともなことも書くんだな。
塩大福を3つも食ったら、脳みそが回転し始めたようだ。
いつもはキレイごとばかりなのに、オリンピックのレベルにも達していない身の程知らずに、ムッときたのかもしれない。
「何かを得ようとするなら、何かを捨てる覚悟も必要です。できるというなら、夢を追いかけてください」
先生の実感だ。今、とても身にしみている。
夢を叶えるため、週3のアルバイトで稼ぐような低収入で、日々耐えている。
金欠だから何も買えない。どこにも行けない。家族以外は、誰も相手にしてくれない。
契約彼氏の今井以外は・・。
せめて、コンビニあたりでバイトをすれば、もう少し実入りはよくなるのに、書く時間を優先させたいのだ。
会社勤めをすれば、安定してお金は入ってくるが、時間はとられる。だから先生は、収入を捨てた。両親は健在だから、年金生活にちゃっかりパラサイト。
結婚して家庭を持てば、家事と育児で時間はとられる。だから結婚も捨てた。これはもともと、願望がないようだけれど・・。
「いろいろ捨てたとしても、夢が実現するとは限りません。長い時間をかけ、お金をつぎ込み努力をしても、報われるかどうかはわからない世界」
いや、報われないって・・。特にオリンピックは・・。
身も心もすり減らす努力をしても、切符を手にできるのはほんの一握り。狭き門。狭すぎる門か。
「その間、出口の見えないトンネルに入ったまま、ジッと耐えつつ、自分を信じて、明るい未来を信じて、前進していかねばなりません」
それはまるで、売れない芸人や俳優、歌手と同じ。
当たれば大きい、ギャンブル人生。
先生のような物書きの場合、年齢をさほど気にする必要がないからいいけれど、それが却って、あきらめを悪くしている。
顔つきや体型からは想像できないが、ああ見えても繊細で、落ち込むことは多い。沈んだ顔をしていることがあるし、ため息をつくのはしょっちゅうだ。
このまま50、60と歳を重ね、今と変わらずトンネルにいたらどうしよう。出口の光が見えなかったらどうしよう。
夢が本当に、夢で終わってしまったら・・。
そんなことを考え出すと、そりゃあ、枕も濡れるわ。
冬眠状態の自分にイライラして怒りっぽくなるし、気持ちもどんどん腐っていく。
「しかし、あきらめた時点で、今までの苦労が水の泡。それでいいのかっ!」
バチンと、Enterキーを叩いた。
熱くなるな、熱く。
完全に、自分に対して書いているじゃないか。
気持ちとしては、1日も早く、トンネルから脱出したいのだ。
そりゃあわかるけれど、実家暮らしの居心地のよさが、夢を遠くしているよな。両親が亡くなるという、とてつもない逆境がないと、人間、底力は出てこないんじゃなかろうか。
・・と、おいらは思う。
先生は毎日、昼寝ができるもんな。親は元気でいてほしいから、それ以外の逆境が、絶対必要だ。
「それでも、オリンピックに未練があるなら、コーチや監督という手もあります。選手と一緒に、夢を追いかけることができるでしょう」
まだすすめる気なんだ。
「しかし、心に留めておいてください。オリンピックも人生も、塩大福も甘くはありませんよ」
1つ余計だわ。
なぜ唐突に、塩大福が出てきたのか、読者はきっと首をひねることだろう。
最初のコメントを投稿しよう!