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6 こだわりはいらない
おいら、先生のお母さんが大好きだ。
お母さんは、先生と違って塩対応はしない。今井と違って、ウザいくらいにちょっかいを出してはこない。
おいらが足元にスリスリと寄っていったときは、十分に甘えさせてくれる。寝ているときは、そのまま放っておいてくれる。
とにかく、気に障ることは一切しない。気持ちが通じているのだ。
相手の欲していることを、敏感に感じ取る能力が自然に備わっている。きっと昔は、仕事ができたに違いない。
しかし、できる女性も、歳には勝てないようだ。
最近は、物忘れがひどくなった。
ここ数日は、おいらの名前をノリちゃんと呼んでいる。
そりゃあ海苔も黒いけれど、クロとノリでは、発音がまったくかぶっていない。そのうち、醤油とかひじきとか、タイヤとか言い出すんじゃなかろうか。
黒つながりの冗談と思いたい。
そんな調子で、娘の名前まで間違えないだろうか? 忘れやしないか心配だ。
先生はペンネームもあるもんな。
単純な本名の反動からか、法城寺麗子という、いかにもペンネームと言わんばかりの名前をつけている。どこぞのご令嬢か、平安貴族の末裔みたいだ。
せめて、お茶やお花の先生ならまだしも、食いっぷりをさらけ出す物書きの先生は、本名の松本やえのほうが、よっぽどいいと思うけれど・・。
お母さんが、
「やえ」
と呼ぶたび、
「麗子と言って!」
先生はすぐに訂正するから、もう名前で呼ぶのが面倒になっている。
・・が、今日は違った。
「やえ子、買い物に行ってくるけど、何かほしいものある?」
お母さんがドアの横から顔を出し、仕事部屋をのぞいた。
春らしく、薄いピンク色の帽子をかぶっている。女性はハゲに悩むことはないけれど、薄毛の悩みはある。
お母さんはもともと髪が細いから、パーマをあててもすぐにぺしゃんこになって、まったくボリュームが出ない。髪のセットが決まらないから、いつも帽子でカムフラージュをしている。
健全なカムフラージュ。
それに、ちゃんと化粧もしている。すっぴんのまま出かける先生とは、身だしなみの心構えが違う。
「やえ子・・?」
先生はワークチェアに座ったまま、首だけフクロウのように動かした。そして、目が細くなった。
やえと麗子を足して2で割った名前でも、ほぼやえ寄りだ。それを指摘するため口を開きかけたが、お母さんが先制口撃。
「ほしいものある?」
もう一度聞く。
先生のほしいものは決まっている。仕事とベストセラーだ。しかし、それをお母さんに言ったところで、どうなるものでもない。
「ポテチのコンソメ」
呼び名の不満をグッと堪え、無愛想に答える。腹に脂肪がたっぷりとついた体をねじり始めた。本人は、ストレッチを兼ねているつもりなのだろう。
その程度で、脂がとれると思うなよ。
麗子の名にふさわしい体型になると思うなよ。
お母さんが部屋のドアを閉めると、今井から届いた悩み相談のメールを読み始めた。『ラッキーカラーの呪縛が解けない』
(30代・女性/北海道)
5年前、ファッション雑誌の占いコーナーに、青いものを身につけると、幸運を呼ぶと書いてありました。
そんなことはないだろうと、雑誌にツッコミを入れつつ、スマホケースと化粧ポーチを青に替えてみたところ、すぐに彼氏ができ、30を目前にして、結婚まですることができました。
その後、服や雑貨、家具などに、できるだけ青を選ぶようにしたところ、宝くじが当たったり、元気な双子を授かったり、家の裏で、隕石かと思われる真っ黒い石を発見したりと、幸運が続いています。
ところが、家の中がブルーすぎて、1年中、体が冷えたような感覚。
夫から、何でも青にするなと叱られ、最近は険悪なムードが漂っていますが、幸運をみすみす逃しているようで、なかなか気持ちが切り替えられません。 ラッキーカラーが、黒の場合ってあるのかな?
壁紙もカーテンも、収納家具なんかも黒一色だったら、地下牢に閉じ込められた囚人みたいに、精神が病みそうだ。
きっと、3日ぐらいで発狂する。その前に、誰も黒でそろえようとはしないか・・。
黒くていいのは、ペットだけだよな。
「恐るべきブルーパワーですね。うらやましい限りです。それにしても、まだ青でよかったと思います。もし、ラッキーカラーがゴールドだったら、家の中がまぶしくなります。黄金の茶室や、総金箔貼りのトイレを見たことはありますか? あのようなえげつない成金趣味では、夫も友人も、あなたとは一定の距離を置くことになるでしょう」
その前に、金銭的に無理だよな。金色の折り紙で代用するしかない。
「色には、さまざまな効果があります」
先生はここまで書いて、カチカチとマウスをクリックし始めた。色について、ネットで調べるみたいだ。
「青は興奮を鎮め、感情を抑えます。冷静な判断をしたいときは、青がいいようです。きっとあなたは、身近に青を見ることで、今までよい判断をしてきたのでしょう。それが、よい結果につながった」
まぁ、そういうことにしといてやろう。
「青の光は副交感神経を刺激し、脈拍や体温が下がるという効果もあるようです。体が冷えたように感じるのも、そのためだと思います」
そして先生は、しばしほかの色についても目を通し、
「なるほどぉ~」
だの、
「へぇ~」
だのと、感心する。
「色の効果って、恐ろしいねぇ」
と、つぶやいたあと、マウスの横にいたおいらをギロリとにらむ。
「クロ」
何だよ。
「活動エネルギーを低下させ、不安や恐怖、絶望を抱かせる色だって・・」
そ、それはもしや・・。
「黒一色の空間に、人が長時間いると、いろんな臓器の活動が、ものすごく低下するって・・」
なぜ悪いことだけ言う? いい効果だって、きっとあるはずなのに・・。
「人を殺すのに、武器はいらないか・・」
先生が腕を組んだ。
声が重低音。目つきはスナイパー。殺したい奴でもいるのか?
遠慮がちにニャーと鳴いてみたら、
「おっと、仕事仕事」
キーボードに手をのせる。
「たまたま雑誌を見たとき、ラッキーカラーが青になっていたということですが、ほかの月や年では、恐らく違う色が、ラッキーカラーになっていたでしょう。占い師が変われば、色も変わるはず。夫との関係や、体も壊すというのであれば、もはやラッキーカラーではありません。効果は薄れています」
座りっぱなしで尻が痛くなったのか、先生は椅子から立ち上がった。
「そもそも、ラッキーカラーに効果なんてある? 気休めだよね。体に影響はあるかもしれないけど、人生に何の影響もないわ。ねぇ、クロ」
そんなこと、みんな薄々わかってるよ。
気持ちの問題。何かにすがりたいだけなんだから・・。
ラッキーカラーとかアイテムが、一番お手軽なんだから・・。
先生だって、仕事運がアップするラッキーアイテムが、ピンクのブタって書いてあったとき、ぬいぐるみを3つも買ったじゃないか。
ブタの前で、パンパンと手を合わせ、仕事をくれと頼んでいたじゃないか。
本人の努力不足で、効果はゼロだけれど、ダメな場合は、占いやブタのせいにできる。ラッキーアイテムというより、不満をぶつけるアイテムだ。
先生が部屋を出て、トイレから戻ってくると、またパソコンに向かう。
「運勢というものは常に変化するので、青だけに固執する必要はないと思います。こだわりを捨ててください。青を捨ててください。急に人生が暗転することはないと思います」
ついでにブタも捨ててやれ。
「私はこだわりがないので、気が楽です」
パチンとEnterキーを叩いたところで、お母さんが買い物から帰ってきた。
「やえ子、買ってきたよ」
「麗子だから・・」
即座に言い返す。こだわっていた。
頼んでおいたお菓子を手にすると、
「これじゃないのにぃ!」
さらに、先生の口がとがった。
「のりしおって言わなかった?」
お母さんが、え?っという顔をする。
そういえば、買い物前に、おいらが玄関でお見送りをしていると、ノリちゃんは何がほしい?とか、ノリちゃん行ってくるとか、ノリちゃんノリちゃんと連発していた。
これはもう頭の中にノリという言葉が残り、コンソメとすり替わった可能性が高い。
「コンソメだから・・。コンソメが好きなの。コンソメしか食べないから・・」
先生が語気を強めた。恐ろしくこだわっている。
「私はこだわりがないので、気が楽です」
そんな文章を打ち込んだのは、ほんの5分前のことだ。
先生のいいところは、悩み相談の回答と、自身の行動が真逆な点。
「じゃあ、食べないのね?」
ムッとしたお母さんが取り上げようとすると、先生はポテチの袋を腕に抱え、
「そんなこと、ひと言も言ってないでしょ!」
顔をしかめてつっかかる。それが、お母さんにはカチンときたようだ。
「早く結婚したらどうなの? そしたら、買い物に行くのが面倒だって、わかるから・・」
負けずに言い返す。
「結婚って、あたしの歳、いくつだと思ってんの?」
見合い相手が、ジジイばかりになる歳だ。
「今井くんがいるでしょ?」
その瞬間、先生の鼻の穴が広がった。
ああ、これは契約偽装彼氏・今井の存在を、すっかり忘れていたパターンだな。
ハッとしたけれど、あからさまに口を開けると、嘘を見抜かれるから、代わりに鼻の穴が広がったのだ。
「12歳も年下なんて、おみくじで大吉を、10回連続で引くようなもんでしょ?」
ラッキーだって、言いたいんだろうな。
「しかも新聞社勤め。背も高いし、イケメンだし・・」
このあと先生の、
「はぁ・・?」
という声と、おいらのニャー?が、同じタイミングになった。
幻聴だろうか? イケメンは・・。
「1日も早く結婚しなさい。40になると、子供は難しくなるから・・」
それからお母さんは、堰を切ったかのように、言いたかったことをぶちまけていく。
このチャンスを逃したら、もうあとはない。
あんたに今井くんは、もったいないくらい。
この際、デキ婚でもいい。
式なんてあげなくてもいいから、籍だけいれろ。
向こうの家へ、さっさと挨拶に行け。
どこで息継ぎをしているんだろうか?
「ああ~、うるさい。ほっといてっ!」
「今度今井くんが来たら、この先どうするか、本人に聞くからね」
「勝手なことしないでよっ!」
先生がお母さんの背中に手を当て、部屋から強引に押し出した。
「いらないわ、もう・・」
ポテチを突き返し、バタンと強めにドアを閉める。
お母さんの手には、娘のために買ってきたアメの袋もあったのに・・。
「じゃあ今度から、あんたが買い物に行きなさいよ! こっちは重い袋をぶら下げて、スーパーから歩いてきたのにぃ・・」
ドア越しに声を張り上げる。
こういうとき、青い部屋だったら、もっと冷静に会話ができるのかな?
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