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7 我慢の先はストレス
先生は毛布にくるまって、ソファーで昼寝。
その姿はまるで、浜辺で寝そべるアザラシのよう。大口を開け、ついでによだれも垂らしている。
「へへっ・・」
かすかに笑ったような声がしたから、これはきっと、うまいものを食っている夢に違いない。ウニかフカヒレか、それともA5ランクの牛肉か? ポテチのコンソメに、埋もれている夢だったりして・・。
しかし、そのあと急に表情が激変。
毒でも盛られたように苦しみ出したから、おいらはソファーに飛び乗った。耳を近づけると、聞き取れた単語が、
「ざ、残高・・。ううぅ~」
喉を絞ったうめき声。
ホラーな夢を見ている。桁数がどんどん減って、金欠の恐怖におびえる夢。
いや、夢じゃない。それは現実だ。もうすでに起きている。
それとも、さらなる金欠沼にはまる予知夢なのか。
「くれ、くれ・・。せめて月に10万、20万・・」
心の叫びが止まらない。そりゃあ寝汗もかくわ。
いつもは、
「カネはないけど、自由はある」
カネより自由が大事と言わんばかりに、イキがっているけれど、夢で本音が出た。でも、本当にカネのないガチの貧乏は、自由もない。日々の生活費を稼ぐために、やりたくもない仕事で、身も心もすり減らしている。
通帳の残高が着々と減ってはいても、両親との同居は大きい。平日の昼間に惰眠ができるのは、親のおかげだぞ。あとは、稼ぎのある旦那を持つ、専業主婦だけだ。
ねぇ、先生。
いっそ、今井と結婚するか? 養ってもらうか?
とりあえず安定した生活と、昼寝は確保できる。
でもまぁ、2人が夫婦だなんてホラーだよな。夢でも見たくない。
デコボコすぎるコンビ。背の高さも体の幅も、体重も・・。
性格だって違う。押しの強い上司と、振り回される部下そのもの。
共通していることがあるとすれば、お互い食べることが好き。
ただそれだけ・・。
なんだかおいらも眠くなってきた。
パソコンの横に移動して、マウスに頭をのせた。
仕事部屋で忙しいのは、置き時計の秒針だけ。携帯電話も鳴らない。メールも来ない。
まったりした空気が漂っている。
おいらにはいい環境だ。
枕にしているマウスを、もう少し体に引き寄せようと、前足で動かすと、パソコンの画面が切り替わる。
新聞の相談コーナー『悩みごとプリーズ』に載せる文章が、書きかけになっていた。『彼女の作る弁当がまずい』
(20代・男性/兵庫県)
付き合い始めて、半年になる彼女がいます。
僕は会社員で、昼食はコンビニ弁当や菓子パン、カップラーメンばかりでした。なので、彼女に弁当を作ってほしいと、ダメもとで頼んでみたら、快く引き受けてくれました。
てっきり料理上手かと思いきや、こげて真っ黒な卵焼きは、ケーキのように甘く、肉じゃがは、出汁が入っていない上に、じゃがいもが煮くずれていました。
ひき肉からこねて作ったハンバーグは、硬くてパサパサ。作りたてでも、肉汁が出てきません。
これを何の疑いもなく、平然と弁当箱に詰める強心臓。
冷凍食品に頼らないポリシーはすばらしいのですが、自然解凍で食べることができるお弁当エビグラタンやメンチカツのほうが、正直うれしいです。
このまま毎日、彼女の弁当を食べるという修行を、続けていく自信がありません。「彼女は毎日、朝早く起きて、お弁当を作っているのですか? あなたはなんて、幸せ者なんでしょう。とても愛されているのですね。世の中には、面倒だと言って、作ってくれない奥さんだっています。子供のついでにしか、作ってくれないこともあります。なのに、結婚するかどうかもまだわからない彼氏のために、せっせとキッチンに立つなんて、健気ではありませんか。これぞ、ガールフレンドの鏡」
先生がいきなり、ゴッと短いいびきをかく。
おいらはびっくりして、キーボードの右上に前足をついたら、最初の1行が画面から消えた。
「お弁当を作り始めて、どれくらい経つのかわかりませんが、きっと上達するでしょう。おいしいものを食べてほしいという気持ちがあれば、腕も上がり、レパートリーも増えていきます。今はジッと我慢のときです」
文句も言わずに食えということか。
「愛情という調味料が入っているなんて、贅沢ですよ」
うわぁ~、Loveか。書いてて恥ずかしくないのかな?
「私も昔は、ボーイフレンドのために、せっせとお弁当をこしらえた時期があります」
尽くすタイプのアピールか?
絶対嘘だ。
珍獣好みの彼氏がいたとしても、お弁当を作るなんてしおらしいことはしない。
なんせ先生は、食べる専門。
唯一売れたエッセイだって、『食べて太って、また食べて・・』というタイトルでわかる通り、海外へ行って、己の嗅覚に引っかかった珍しい食べ物を、片っ端から食らう話しかない。自分で料理をする話は出てこないのだ。
お母さんの料理を手伝うことはあるものの、料理人の下働きみたいに、鍋や皿を洗ったり、せいぜい肉や野菜を切るぐらいだ。味付けは完全に、戦力外。
盛り付けも彩りも、センスはゼロ。見た目はエサと言っていい。買ってきた総菜だって、パックのまま食卓に並べる。
あえて得意料理があるとすれば、ルーを入れればおいしくなるカレーとシチューだけ。手の込んだものは作らない。というか、作れない。
その前に、面倒くさがる。
昔と今で、料理に対する姿勢が、大幅に変わっているとは思えない。
なんせ、人はそう簡単に変わらないからだ。
「最初はがんばって、冷凍食品を使わずに、お弁当の定番、コロッケやハンバーグ、鶏のから揚げに、ポテトサラダを作っていました。卵焼きも、コツがわかるとどんどん上手く巻けるようになっていくものです」
はいはい・・。
「ベトナムの生春巻きや、中国のごま団子にも挑戦したことがありますよ。そうそう、家庭菜園で育てたプチトマトを、入れたこともありました。トマトは彩りに最高ですね」
嘘の上塗りをするな。彩りの概念すらないだろ。
それに、先生んちの庭は、家庭菜園をするほど広くはない。
プランターが2つほどあるけれど、お母さんが植えている季節の花だけだ。
「お弁当だけではなく、手料理もふるまったことがあります。野菜不足の彼のために、バーニャカウダを作ったり、アクアパッツァやビシソワーズにも挑戦したり・・」
とりあえず、知っている料理名を書いただけだな。わざと難しそうなものを選んだ。日本人なら、そこは鍋でいいだろう、お鍋で・・。
それとも、外国人のボーイフレンドだったのか?
まさか、BSのテレビで見ている、韓国や中国ドラマの主演俳優で、妄想してないだろうな。
「おいしいと言ってくれるのはうれしいことです。何も反応がないと、作り甲斐がなくなります。あなたが彼女の立場だったら、同じように思うはず。たとえ味がいまいちでも、おいしいと言ってあげましょう。もっと気合いが入るかもしれません」
ほめる作戦か・・。
「もしかすると、料理教室に通って、さらに腕を上げようとするかもしれません。そうなれば、確実においしいお弁当になるでしょう」
先生がまたしても、ゴーッといびきをかくから、おいら、うっかりキーボードに手をついた。
2行分が、みるみる消えていく。
ソファーに目をやると、先生は丸い背中をおいらに向け、寝返りを打っていた。
「結婚を考えているのかどうかはわかりませんが、一緒になると、毎日3食、あるいは2食が、彼女の手料理になるわけです」
地獄だな。確かに修行だ。
「上手い下手は、結婚生活にも影響を与えます。男をつかむなら、胃袋をつかめともいいます。彼女は今、必死に努力しているのかもしれません。気持ちをムダにしないでください」
まぁ、それはわかるけれど、まずいものを食わされる身にもなってみろ。
罰ゲームだぞ。
はっきり言えないなら、弁当作りは大変だから、もうやらなくていいと言ったらどうだ?
そこまで言えないなら、せめて、週に1、2回でいいと、さも気づかっているようなやさしさを見せればいい。
本音は隠せ。相手を傷つけずにすむ。
料理が好きで、朝が苦手でない限り、早朝に弁当作りは負担になるんだから、絶対、その提案に食いつくはずだ。
ゴゴーッと、アザラシが鳴く。いや、先生だった。
心臓に悪いな。びっくりする。
パソコンを見ると、ものすごい勢いで文字が消えていく。
何でだろうと思ったら、おいら、キーボードの右上のボタンを、ずっと押していた。
Deleteと書いてある。
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