(1-1)三年間を思い返してみてください

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 卒業式の一週間前。彼女は一人学校へ来ていた。教室に人影はなかった。友人にも連絡していない。思いつきでしかなかった。まだ春の気配の遠い空気の中、恐らく彼女の思い浮かべる光景は望めないだろうと知っていて、しかし何かに突き動かされるように、彼女は制服に袖を通したのだった。 「あー、やっぱり」  校舎裏の花壇は、見事なまでに土の色ばかりが広がっている。あの日わくわくした気持ちで眺めた景色はどこにもなかった。思えば、中学時代に夢想していた高校生活とはまったく違う日々を彼女は過ごしてきた。まさかこれっぽっちも絵に興味のない自分が、美術室に入り浸るようになるなんて。そして、所謂青春と聞いて思い浮かぶような出来事にまったく縁がないまま、あっさり卒業していくことになるなんて。不思議な気分だった。  卒業式当日は、皆、部活の後輩と挨拶をしたり、クラス会に参加したり、慌ただしく過ごすことだろう。人も多いはずだ。だから彼女は、今日、この場所に訪れたかったのだ。あの日、魔法がかかったような時間を過ごした場所に。すべてのはじまりの場所に。  いつになくセンチメンタルな気分になっている。彼女は厳重に重ねた仮面がぼろぼろと剥がれ落ちていくのを感じた。いっそ諦めてしまおうか、とも思った。なかったことにするのを諦めてしまおうか、と。しかしその誘惑はすぐ消え失せる。このまっさらな花壇に、来週色とりどりの花々が咲き誇るのと同じくらい、それは有り得ない妄想だった。じっと目を伏せて、彼女は何かを堪えるように立ち尽くす。或いは、何かを待ち望むように。  五分だろうか、十分だろうか。どれほどの時間が経ったか分からないまま、彼女は空を仰ぐ。遠くのほうから、下級生たちの笑い声が聞こえる。どこかで教室の窓が開いているようだった。ゆるゆると白い雲が流れている。花壇の前で佇む彼女に、奇跡は起こらなかった。 ――――― ―――――――――― 「この学び舎で経験したことのすべてが、これからのあなたがたの人生にとって、かけがえのない宝物となることでしょう」  一同起立、の号令と共に立ち上がる。ようやく終わった長い話に方々から声にならない声が漏れるのが分かった。かけがえのない宝物となることでしょう。彼女はその言葉を頭の中で繰り返し、笑ってしまいそうになった。むしろ彼女の得たものは、廃棄に困るような代物でしかなかった。
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