1432人が本棚に入れています
本棚に追加
「奈々子は、俺が運びます」
そう啖呵を切る篠崎に、田中は営業スマイルを向ける。
「篠崎様、部下は私が運びますので、貴方は彼女の元へお戻りください。
一人にしては、未来の奥様が寂しがりますよ」
柔らかな口ぶりの中にどこか棘があり、篠崎は 言葉を詰まらせた。
篠崎が黙ったのを見ると、田中は松下を揺らさない様にゆっくりと歩き始める。
ふっと、一言言い忘れたことに思いだし、田中は足を止め振り返ると篠崎はまだそこに立ち尽くしたままだった。
「後、これはお客様としてではなく一人の男として言わせてもらうが、ゲスの勘繰りはやめてくれ。
もう別れてるとはいえ、アンタの為に頑張ってた松下に失礼だ。」
「俺の為……?」
「それすら、気づかなかったのか?」
飽きれた様にため息を漏らし、田中はその場をあとにした。
田中は、上司として松下をずっと見てきた。
薬指に、ダイヤのリング。
松下がより綺麗になったのも、後輩の教育になお、意欲的になったのもその頃だった。
田中は、松下の口から近いうち『寿退社を……』と聞くもんだと思っていた。
「近すぎると……気付かないものかね……」
休憩室のソファーに松下を寝かせ、頬に手をやるとひんやりと冷たく血の気がひいていた。
「本当に……お前は」
田中は、上司という立場でどこまで松下の心に踏み込んでいいか悩んでいた。
目が離せず放ってはおけない、困った部下。
それだけのはずなのに。
ゲスの勘繰りはやめてくれ……
啖呵を切った自分の言葉を心の中で復唱し、事務員に松下の事を頼み、田中はドレスルームに向かった。
最初のコメントを投稿しよう!