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 そうは言ったが、信也の言うとおり相手は滅多に顔を合わせる事のない調律師だ。そんなに警戒する必要もないのかもしれない、と奏多はその翌日も大学の講義が終わったあと真っ直ぐに音楽教室へ向かった。  長年通い続けている音楽教室だが、現在奏多は先生からのレッスンは受けていない。練習室のレンタルのみという形で教室に通っている。好きな時に音楽教室に顔を出して、空いている練習室を使って自由に弾いているだけだ。  奏多の家は店と居住スペースがつながっており、同じ商店街内の別店舗も住居一体型の家がほとんどだ。家同士も密集しているため、家では満足にピアノを弾くことができない。そのため、奏多はほぼ毎日音楽教室に顔を出しては、許された時間の限りピアノを弾く。  一見ごく普通の一軒家にも見えるサクマ音楽教室の玄関を、インターフォンを鳴らすことなく開く。玄関を入って目の前にあるホワイトボードで練習室の使用スケジュールが確認できる。練習室のレンタル利用はあくまでレッスン生が優先で予約もできない。そのため、いつもその日の使用状況を確認し、開いている部屋を利用する。  ホワイトボードを確認し、空いているところに『使用中 奏多』と書き込む。名字ではなく名前で書くのは、同じ教室内に青木がもう一人居るからだ。  練習室の重い防音ドアを押し開き、中に入って明かりをつける。自分の部屋や信也の家。練習室以外でもピアノを弾ける場所はあるが、音楽教室のグランドピアノが奏多の一番のお気に入りだ。  練習室のピアノはどれも手入れが行き届いており、調律も完璧だ。それだけではなく、音楽教室のピアノとは相性がいいのだ。 「……変なこと考えちまった」  このピアノも慶一が調律したのだと思うと、ピアノと相性がいいということを、勝手に慶一と相性がいいと言ったように脳内変換が起こり、自分の思考回路に眉を寄せた。  考えなくていいと思えば思うほど考えている気がする。それだけ衝撃的な出来事だったのだから仕方がないのかもしれないが、こうも意識から離れないのであれば、やはり迷惑だからと言ってもう一度断るべきではないだろうか。 「あー、やめやめ!」  せっかくピアノが弾ける時間だというのに、余計な事に気を取られてはもったいない。完全防音なせいか、ここに来るとどうも独り言が増える気がする。
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