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「ピアノにしても、家族に隠すことにしても、慶一ってやつに対しても。確かに奏多はゲイかもしれねえけど、ただの恋愛だと考えれば両思いになれた幸せな恋人同士じゃねえか。十年以上片思いの俺からすれば、奇跡みたいなもんだ」 「信也、おまえ」  信也が考えているのは、志織の事だと横顔を見ればわかる。諦めていると何度口にしても、断ち切れない未練。幼馴染の恋を応援してやりたいと思う気持ちはあるが、相手は姉の志織。志織はすでに既婚者であり、二児の母になろうとしている。そんな志織を祝福しているだけに、信也に対してかける言葉がない。  すると信也の方から「まあ、俺の事はいいんだよ」と笑った。 「とりあえずさ、俺はもうちょっとおまえに諦めないやり方を選んで欲しかったんだよ。あいつとの事は、いい方のきっかけになるんじゃないかと思ってた。第三者の好き勝手な意見は以上だ。あとはもう、おまえの好きにしろ」  平手で頭を叩かれた。痛てえよと呟くと信也はさっさと立ち上がった。 「帰るのか?」 「ああ。悪いが、今は俺の軽く傷心者だ。おまえがスッキリしたらまた愚痴酒に付き合え」  もう一度奏多の頭を叩いてから、信也は出て行った。 「……言われなくても、わかってるっつの」  誰もいなくなった部屋で、一人項垂れた。  慶一を傷つけた。コンクールの出場をやめたとき、音大への入学を辞退したとき、そして自分の将来を諦めるとき、誰かを傷つけてきたこと、今ならわかる。  でも、正解のない選択で選ばなかった未来を振り返って『もしも』の世界を想像しても虚しいだけだ。だったら、自分の選んだ現実と向き合うしかない。  それを何度も言い聞かせているのに、心はずっと重いまま、もうピアノしか残っていないのに、どれだけピアノに向かい合ってもただ機械的に指が動くだけで、感情が全く動かない。  なにもすることなく、ただぼんやりと天井を見上げていると部屋の中に大声が響いた。 「おい、奏多! 暇なら手伝いやがれ!」  店から叫ぶ父親のどら声だ。 「声、でけえよ」  誰に聞かせるでもなくぼやいて、部屋を出る。一応、店から奏多の部屋までドア二つは隔てているのだが、父親の馬鹿でかい声はいつでも家中に筒抜けだ。青木家には玄関が二つある。一つは普通の玄関で、もう一つの玄関はそのまま店に直結している。
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