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 桐原尚の毎日は大学の授業と課題で埋め尽くされている。   週一で近所の中学生に数学と英語を教え、月に三回叔母が経営するカフェの手伝いに行き、ごくたまに飲み会にも顔を出すが、あとは大学と家との往復の繰り返し。それなのに完徹という日もまれではない。建築学を専攻しているため、レポートや課題の量が恐ろしく多いのだ。  とはいえ、そんな尚にも恋人がいる。  相手は同性で、遠距離恋愛の上、少し前まではいわゆる「あやかし」と呼ばれる存在だった。今なおその名残はあって、正体もよくわからないが……二人の関係はいたって順調だ。 「あーあ」  尚が今日取り組んでいるのは、オーストリアにある美術館の模型作りだ。曲線が多いためラインがきれいに出せず、かなり時間がかかっていた。 「うわ、もうこんな時間」  カーテンの隙間から見える空も、いつの間にか明るくなりかけていた。目がショボついて鈍い頭痛もしたが、完成まであと少しだ。  いったんデスクから離れ、強ばった肩を回しながら、ため息をついた時だった。  ――尚。  ふいに肩胛骨のあたりが、ぼんやり温かくなった。誰かの手がそこを撫でさすっている。 「星緒くん?」  反射的に弾んだ声を上げてから、尚はぎこちなく「星緒」と言い直した。しばらく前から呼び捨てにしてくれと頼まれているが、つい癖で「くん」をつけてしまう。  ――だいぶ凝ってるな。  低い囁きに右の耳をくすぐられ、背筋を揉まれると、驚くほど甘い声が零れてしまった。 「あ、ん」  ――気持ちいいか? 「うん……すごく」  尚が目を閉じて頷くと、満足そうな低い笑い声が聞こえた。  ――お疲れさま。  背中に当てられた大きな手と、落ち着いた優しい声。  だが、それは実体ではない。尚の恋人である星緒は、東京から数百キロも離れた古い旅館で暮らしているのだから。  にもかかわらず彼の気配は鮮明で、本当にすぐ後ろにいてくれるようだった。緑の靄みたいな状態だったこともある星緒は、その気になれば時空を越えて、ここに姿を現すことさえできるらしい。  ――今からそっちに行くか?  まるで心を読まれたようで、尚は思わず目を見開いた。  ひどく疲れた時や落ち込んだ時、尚がギリギリまで追いつめられると、たとえ今みたいに夜明け間際であろうと、星緒はいつもこんなふうに声をかけてくれるのだ。
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