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3.彼はいずこへ
藍子は立ち上がったまま、黙って龍司のことを見下ろし続けた。
どうして龍司は、自分の体質が「条件付きで心の中の声が聞こえない」と言うことを知っているのだろうか。
良く考えてみると、龍司は「心の中の声が聞こえる」ということがバレてしまった時も、特に驚く様子を見せなかった。
もしかすると、自分の特殊な体質について、何か知っているのだろうか。
藍子は一瞬、龍司に自分の体質のことを話したのは間違いだったのではないかと思った。
龍司は自分みたいな特殊な体質の人間のことを調べているのかもしれない。とてもそんな風な人間にも見えないが、まさか自分の体質を悪用しようとか考えている人間だったら、どうしよう……。
「驚かせて、ごめん。驚くのもムリないよね」
龍司はもう一度イスから立ち上がって藍子の傍に行くと、驚いて立ちすくんでいる藍子の肩を軽く支えてイスに座らせた。
「――」
藍子は思わず声を上げそうになった。
龍司の手が肩に軽く触れた瞬間、心の中の声が聞こえない人間から漂って来る資生堂の香水「アンジェリーク」の匂いを感じたからだ。
藍子は大好きな「アンジェリーク」の匂いに触れ、イスに座り直すと、さっきよりもかなり落ち着きを取り戻すことが出来た。
龍司は藍子が落ち着きを取り戻したことを確認すると軽く頷き、藍子の向かいのイスに座り直した。
「どうして知ってるかと言うと、色々と事情があってね。話が長くなるけど、ちゃんと説明するよ。今日はそれで藍子ちゃんに会いに来たんだ」
藍子は龍司に初めて「藍子ちゃん」と名前で呼びかけられたことに気付いた。
男性で「藍子ちゃん」なんて言って来るのは、須佐と気を許しているバーのマスターの久住くらいだ。
藍子は知り合ったばかりの異性が気軽に「ちゃん」付けで呼べるような雰囲気を持っている女の子でもなかったし、藍子自身も良い気分がしなかった。
でも今、龍司から「藍子ちゃん」と呼ばれても、全然イヤな感じがしない。昨日会ったばかりの人なのに、こんなに驚くようなことを言った人なのに、だ。
むしろ、須佐のように昔から親しくしている人に「藍子ちゃん」と言われているような親近感さえ覚えたし、親近感を覚えている自分にも驚いた。
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