春利にしかできない先生へのお礼

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「そこは、もっと優しく弾いて。もっとよ、もっと」 「その部分は一音一音をはっきり、弾ませて。そう、その感じ!」 朋子先生。朋子先生。 朋子先生の優しくも力強い声が耳元に蘇る。先生の真っ白な手。柔らかく動く指先。先生の導きに従って進めば、聞こえてくる音は自分が鳴らしているとは思えないほど情感豊かに響き渡った。春利にとって、それは初めての経験だった。 ピアノ自体は幼稚園の頃から習っていた。週に一度、険しい顔の先生の家へレッスンに通った。その先生は口をへの字に曲げて春利が弾くのを監視し、弾き間違えると手をピシャリと叩いた。最後まで間違えずに弾き終えると、楽譜に丸をつけ、次の曲へとページを捲った。それをひたすら繰り返す。そんなレッスンを春利が昨年、中学1年生の冬まで続けたのは、なにもピアノが好きだからではない。先生や母親から、やめろと言われなかったから続けていたに過ぎなかった。 中学2年生に上がるとき、父親の仕事の都合で引っ越すことになった。 「ピアノの先生、探そうか」との母親の提案に、春利は「べつにいいよ」と答えた。彼としては、母親がピアノを続けさせたいなら続けるし、そうでなければしない、母親の意向に従うという意図だった。だが母親は否定の意と捉えたのかもしれない。それっきりピアノの話は持ち出されなかった。
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