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「この辺りは桜で有名なんだ」
林田が話題を切り替えた。落ち着いた低音が耳に心地良い。
「TVで見たことあるかも」
「だろ? さっきの駐車場も普段はトラックの運ちゃん用だけど、花見のときは混むんだぜ」
なるほどと頷いた。確かに混みそうだ。等間隔で植えられた桜の横には整備された歩道があり、こんな天気でなければランニングをする人だっているだろう。
「俺はさ。木下と一緒にこの桜を見に来たいって思ってる」
「…………」
林田に顔を向けると、ぱちりと視線が合った。林田はふわりと微笑むとまた正面を向く。
「桜だけじゃない。夏には海に行って、秋には紅葉を見に行って、ディズニーランドにだって行きたいし」
「ディズニー。ふふふ」
大きなポップコーンバケツをぶら下げる姿が容易に想像できて口元が緩んだ。林田は饒舌に続ける。
「お前の嫌なことが全部ぜんぶ山の向こうに飛んで行けば、大きなスペースが空くだろう? そしたらそこに楽しい思い出を沢山詰め込んでやるんだ」
――嫌なこと、嫌なこと。お山の向こうへ飛んでいけ。
林田の魔法。特別なそれ。
「俺と一緒の楽しい思い出を」
幸せな響きに林田の横顔を見る。真っ直ぐに正面を見据える大きな瞳、悪戯っぽく口角の上がった唇、ぴょこんと跳ねた後ろ髪。それは何年も思い続けたクールな眼鏡じゃなかったけれど、私の体温を上げるには十分すぎる横顔。
――いつでも魔法を掛けてやるよ。
ゆっくりと瞳を閉じその顔をまぶたの裏に焼き付ける。深く息を吸い込めば、私の胸も林田でいっぱいになる。
(私に足りない木も、きっと林田が埋めてくれる)
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