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「外、結構な雨だぜ。少し待てるなら送るけど?」
ぼんやりしているとそんな提案をされた。はっと視線を上げると丸かった瞳が三日月を描いている。
「昨日置いて帰ったからさ。今日は乗って行きたいし」
(そうだ。林田は自動車通勤だったんだっけ)
「ごめん」
申し訳なく呟くと、正面の林田は笑顔のまま片足に体重を掛け腕を組んだ。重たそうな黒い鞄が揺れる。
「謝るなよ。俺から誘ったんだし。……でどうする? 時間は十……いや五分」
「日報は?」
早すぎる時間に目を丸めると、悪戯っぽい笑顔が返ってきた。
「明日まで課長出張だから、明日書く」
「忘れちゃうんじゃないの」
茶化して言うと、眉を吊り上げる。
「鳥じゃねぇよ。昨日のことくらい、ばっちり覚えてるさ」
「!」
暗にカラオケのことを匂わされ息を呑んだ。林田はニヤリと笑って顔を近付けてくる。目の前には少し濡れたジャケットの肩、顔のすぐ横には林田のそれ。
雨の匂いと林田の匂い。
「抱き潰したりしねぇから」
耳元で囁かれた台詞に目の前が真っ白になった。林田は身体を起こし、私の顔を覗き込んでくる。
「で? どうする?」
面白そうに口元を緩める顔が憎たらしく――見えなくて困る。
私は茶色の瞳を見つめて口を開いた。
「…………つ」
掠れた声は言葉にならなかった。林田は首を傾げる。目元でくせの強い茶色の髪が揺れた。
私はすうと息を吸い込んで、もう一度口を開く。
「待つ、って言ったの」
「おう! 了ぉ解!」
林田はとびきりの笑顔で頷くと、背中を向けて駆け出した。ぽつんと一人残された廊下で、ポスターの雪だるまに笑われているような気がした。
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