春待ちの木々

89/106
前へ
/106ページ
次へ
「外、結構な雨だぜ。少し待てるなら送るけど?」  ぼんやりしているとそんな提案をされた。はっと視線を上げると丸かった瞳が三日月を描いている。 「昨日置いて帰ったからさ。今日は乗って行きたいし」 (そうだ。林田は自動車通勤だったんだっけ) 「ごめん」  申し訳なく呟くと、正面の林田は笑顔のまま片足に体重を掛け腕を組んだ。重たそうな黒い鞄が揺れる。 「謝るなよ。俺から誘ったんだし。……でどうする? 時間は十……いや五分」 「日報は?」  早すぎる時間に目を丸めると、悪戯っぽい笑顔が返ってきた。 「明日まで課長出張だから、明日書く」 「忘れちゃうんじゃないの」  茶化して言うと、眉を吊り上げる。 「鳥じゃねぇよ。昨日のことくらい、ばっちり覚えてるさ」 「!」  暗にカラオケのことを匂わされ息を呑んだ。林田はニヤリと笑って顔を近付けてくる。目の前には少し濡れたジャケットの肩、顔のすぐ横には林田のそれ。  雨の匂いと林田の匂い。 「抱き潰したりしねぇから」  耳元で囁かれた台詞に目の前が真っ白になった。林田は身体を起こし、私の顔を覗き込んでくる。 「で? どうする?」  面白そうに口元を緩める顔が憎たらしく――見えなくて困る。  私は茶色の瞳を見つめて口を開いた。 「…………つ」  掠れた声は言葉にならなかった。林田は首を傾げる。目元でくせの強い茶色の髪が揺れた。  私はすうと息を吸い込んで、もう一度口を開く。 「待つ、って言ったの」 「おう! 了ぉ解!」  林田はとびきりの笑顔で頷くと、背中を向けて駆け出した。ぽつんと一人残された廊下で、ポスターの雪だるまに笑われているような気がした。
/106ページ

最初のコメントを投稿しよう!

153人が本棚に入れています
本棚に追加