「失策」

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「失策」

「急げ!モタモタするで無いぞ!」 信濃国 海津城は土埃ときな臭さの混じりあった戦の匂いに満ちていた。 前髪立の小姓が慌ただしく働く雑兵 足軽 荷駄隊に激を飛ばす。 この小姓は今回が初めての戦場での働き。任は物資の仕分けや手配だが血気盛んな若者の血潮はこの戦場の空気で昂っていた。 この小姓 頭の回転が早く主君の覚えめでたき男だがその事を鼻にかけており慕われていない。その事を自覚もしている。故に声を荒げるのだ。 「全くどいつもこいつも鈍い。おい!特にお前だ!空荷でうろつく奴があるか!荷を運べ!」 苛つく小姓に目をつけられたのは小柄な老兵 みすぼらしい身なりなので食うに困った徴収兵だろう。 しかしその老兵 小姓の言う事など何処吹く風 片足を引きずりヨタヨタと立ち去ろうとした。 「おい!貴様!儂の命令が聞けんのか!切るぞ!」 気の短い若者である。腰の太刀をスラリと抜き老兵の前に立ちはだかる。 「ひいっ...」 怯えて腰を抜かす。 抜かしたのは小姓の方だ。 何しろその老兵の風貌は温室育ちの小姓には余りにも禍々しいものであった。 歳の頃は60そこらといった所か 現代ではまだまだ初老だが人間50年のこの時代ではもう隠居しててもおかしくない紛れなく老人である。 しかしこの老人年の割には腰が不自然に曲がり小柄な体が更に小さく見える。 出家し剃髪されたその顔は長年の戦働きで山野を駆けた為か褐色を通り越し、漬けすぎた梅干しの様に赤黒く 皺や刀傷で埋め尽くされている。 その生傷の中で最も存在感のある傷が片目を横断し眼を完全に潰してしまっている。 その傷を隠す為か藁で編んだ眼帯 これを味方陣中では「顔草鞋」と呼んでいる代物で覆っている。 三つ巴の家紋が入った陣羽織はボロボロ 老兵には重すぎたのか鎧は鉄製縅では無く簡素な革鎧。 まさに地獄の餓鬼の様な老兵。吹けば飛ぶ様な頼りなさだが 赤黒い顔に残る最後の眼はギョロりとひん剥かれて怪しい光を宿している。 「こっ...これは山本様!御無礼仕った。何卒御容赦を...」 この身なりでこの男を知らぬ奴はここ甲斐の武田陣中ではいない。 彼の者の名は山本 勘助 晴幸 出家後は道鬼(どうき)と名乗ったが世間に知られた勘助と表記する。 「ブツブツブツブツ」 平伏する小姓など目にも入らぬのか一瞥もくれることなく 孫子の一文を蚊の鳴くような声で諳んじながら海津城内に消えていった。
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