バーンキャット

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特定の配列に制御可能な新規重合法の開発。タイトルだけでは、一般の人には何を研究しようとしているのかさっぱりだろうそれは、要するにプラスチックなどの人工的に作られたポリマーを遺伝子のように配列が完全に決まっているポリマーにする方法を見つけるというもの。メリフィールドが固相合成によって、アミノ酸を並べることに成功し、化学ノーベル賞を受賞しているのは確かだが、それでも万能ではない。だからこそ万能な重合法を作り出そうという研究なのだが、何年かかるかわからない研究テーマだと薬袋は当然理解している。 この研究テーマ、徹夜は当然のことで、どれだけやっても結果が出ないストレスに味覚障害になり、難聴にもなり、ついには腸内出血で鎮痛剤を打っても感じる激痛に耐えながら実験することもあった。もちろん、そのすべては徒労に終わる。そんな人を死に至らしめる可能性すら脳裏に浮かぶ究極の研究テーマを薬袋はまた再開しようとしているのだ。化学に対する異常なまでのプライドがなければ、大学院など止めてしまっていただろう。 そして、今回の勾留によってできた遅れは、下手をすると突然死しかねないと薬袋は覚悟していた。 研究室は七階にあり、薬袋は階段をひたすら上る。エレベーターを使わないのは、教授も誰か尊敬する人の影響でエレベーターを使わないと聞いたためである。つまり、単なる出来心で前例に(なら)って、薬袋もやっているだけだ。無機質な階段を上り、無機質な通路を歩く。そのどこかよそよそしい光景は、どこかの研究室で火事が起きても燃え広がらないためらしい。それなら、雨漏り対策もしてほしいところだと、薬袋は思ったりする。とある研究室で、オーバーナイトの還流で使っていた水を送るチューブが外れて、研究室内が水浸しになり、下の階の研究室にまで水が漏れて、運の悪いことに億は下らない精密機器に水がかかって、おじゃんになるという事件が過去にある。雨漏り対策した方がいいと思って間違いはないだろう。 薬袋は研究室の扉に設置された札を返そうとする。赤色の札を裏返して白色へ、つまり不在から出席へと変えようとしたその手は、ぴたりと止まる。薬袋は他にもすでに札を裏返している人がいることに少し驚く。 皆谷(かいたに)助教がいる。 もしかして、徹夜でもしたのだろうか。薬袋はそんな可能性に脅威を感じながら、そこで自分の札を返した。
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