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さて、今日でどこまで研究を進められるだろうか。
薬袋は半月以上の遅れを取り返すべく、自分の実験ノートを開く。院生一年目、つまり学部四年生から数えて一年三ヵ月で四冊目という驚異のスピードで書き込まれた彼女のノートには、トライ&エラーの繰り返しでしかない実験結果が記されていた。重合条件検討の数、計1038通り。同期はこれ以上他に重合条件が検討できるのかと呆れかえり、皆谷助教からも他の研究をしてもいいんだよと言われる始末。そんな中、教授は次元の違う発言をする。
『ケミストリーの神様に微笑んでもらうまで、やりなさい』
つまり、まだ足りないと。実験量も熱意も全然足りないと。これでいいやと思っているから、結果なんて出るわけがないのだと。
さすがの薬袋も頭が真っ白になったのを覚えている。自分の力のある限り、プライドにかけて、全力で挑んだつもりだ。それをすべて簡単に否定されたのだ。正気でいられるわけがない。教授の言ったことは、根性論でただブラックな発言でしかないと非難する人もいるかもしれない。厳しいことを言うのは期待されているからというパワハラ擁護の言葉が、真面目な人を自殺に導くんだと声をあげる人もいるかもしれない。
しかし、薬袋はこう感じた。
そこで、なりたい自分になれるかどうかが決まる。
直観だが信じるに値すると確信する考えに、薬袋はもう一度研究と真正面から向き合うことを決めた。問題は、この現状ですでに病院に行くほど身体を壊したこともあるという現状だ。この先はまさに命がけ。腸内出血程度では済まないだろうと薬袋は覚悟した。
だから、今日は『ここまで進めよう』ではなく、『どこまで進められるか』と理想を考えるのだ。時間は有限で短いのだから。院生の残り時間は、一年と九ヵ月。修論発表を考慮すると、それより二ヵ月ほど少ないか。単純計算、あと実験ノートが五冊進むくらいの時間。
脳内で自分の研究余命を逆算しながら、ノートパソコンを起動させた。
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