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「実験は順調?」
薬袋は先輩として後輩の進捗状況を確認しようと質問する。すると、急に田宮はどんよりとした空気を出して、頭を垂れる。
「順調? どうでしょうかねぇ……」
ふふふと不敵な笑みを浮かべ、自虐的な雰囲気を醸し出す。薬袋はその諦めムードな気配を無視して、言う。
「少し見てあげるわ。実験ノートを見せてくれるかしら。あと、参考文献も」
「わかりましたぁ……」
ふらふらとした足取りで、田宮は自分の席に向かい、実験ノートと参考文献を取り出して、戻ってくる。
「何の実験が上手くいかないのかしら?」
「ブチリチの反応がどうしても上手くいかないんですぅ……」
ブチリチ。つまり、ブチルリチウム。反応性が高く、水や二酸化炭素などに反応するため、窒素雰囲気下で反応を進行させないといけない試薬の一つである。今回の使用するブチルリチウムはn-ブチルリチウムで、ブチルリチウムの中では反応性の低い方ではあるが、まだ実験初心者の彼には扱いの難しい代物だろう。まだ、t-ブチルリチウムじゃなくてよかったと薬袋は内心思う。あれは空気に触れるだけで火を噴くことで有名で、実際に死人が出た例が報告されている危険なものだから。
「誰か先輩が実験を見てくれると思うのだけど、誰かしら」
「三田先輩です」
「ああ……」と薬袋は思わず残念な声を出してしまう。「なら、仕方ないわね」
早速、上手くいかない大きな理由がわかったので、薬袋は少し頭を抱えてから、続けて言う。
「私が教えるわ。原料はあるのかしら?」
「わっ、あ、はいっ! 原料あります! ありがとうございます!」
「できる範囲で実験の準備をしてもらえるかしら。それで東村さんが来たら、三人で溶媒を汲みに行ったついでにドライアイスを確保しましょう」
「わかりました!」
希望が見えたからか、先ほどとは打って変わって俊敏な動きで田宮は準備に取り掛かる。薬袋はそんな後輩の姿に苦笑しながら、今日の実験の算段を見直していた。
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