固体窒素

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続いて、東村がやってきた。 彼女は薬袋を見て一瞬立ち止まっただけで何事もなかったかのように、か細く挨拶して彼女の席に行く。長い髪は真面目に後ろに束ね、わざとなのか上手くいかなかったのかサイドの髪が繊細に揺れ動いていた。黒レーストップスにベージュのワイドパンツにスニーカーという出で立ち。 実験で汚れてもいい服とは思えないおしゃれに、薬袋は一瞬物言いたげな顔つきになる。物言わぬ華奢なおしゃれ女子というのは、男子にもてはやされる傾向があることを踏まえた戦略なのかしら。そう薬袋は解釈して、周りの気遣いに努力している後輩にあえて何も言わないでいようと決めた。 「東村さん、もうエバポレーターの冷却器のスイッチとかオンにしているから」 薬袋は東村の行動に気付き、声をかける。本来なら、学部四年生は研究室にある冷却器や乾燥機などを朝一にオンにしたり、溶媒を汲みに行ったりする役割がある。今日は薬袋が朝早くから実験をしたために、あらかたの仕事を薬袋がやってしまったのだ。 それを聞くや否や、東村は溶媒を汲みに行く気配を見せる。 「あと、一緒に溶媒も汲みに行きましょう」 「いえ、あの、私やるんで……大丈夫です」 か細い声で、薬袋を制しようとするが、薬袋はただ微笑んで言葉を返す。 「礼儀として、そう答えるのは正しいけど、せっかく先輩がそういう気まぐれを起こしているの。つれないのは悲しいわ」 さすがに東村もそこまで言われると、うんと頷くことしかできない。それを見て、薬袋は優しく言う。 「ありがとう」 そのお礼の言葉に、東村はなぜか俯いて、あまり表情を見せたくないといった風にその場から離れる。その様子に薬袋は可愛いわねと思いながら、自分も溶媒を汲みに行くために席を立った。
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