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アニェス・ディオールは僕とテーブルを挟んで向かい合わせに座り、聞き取った内容を用紙に書き込んでいく。彼女自身は僕のプロフィールに興味が無い様で、からかいの反応を面白がるでもなく淡々と事務作業を進めた。政府から正式に委任を受けたと言っていたが、その割にはデニムジャケットと黒ジーンズというラフな格好だ。少しきつそうな肩回りから、彼女の本来の仕事が過酷なフィールドワークであることが想像出来た。特殊なインクをつけた羽ペンのさらさら滑る音が、BGMで流れてきたバッハの旋律と不思議に調和する。
ここは病院の広いラウンジに設けられたカフェスペース。簡素な自動販売機と観葉植物が一鉢置いてあるだけで、人生の転機となる場面としては少々心もとない。五階建ての大きな総合病院だから、平日の昼間でも順番待ちの患者や早歩きの看護師たちで辺りはいっぱいだ。彼らの好奇心の視線にさらされ、僕はずっと落ち着かない気分でそわそわしている。
僕たちのいる窓辺の席からは、厚い雪に包まれた中庭の冬景色が一望できた。柔らかい朝の日差しが着ているセーターを暖かくしてくれる。
この質問に答えてしまえば、もう後戻りは出来ない。信じたくないこと、認めたくないこと、それらを全て受け入れなくてはならない。それでも、もう戻るべき場所が存在しないと分かった今、一歩前に進む決断が必要だ。
「……2015年の12月27日、トロントで家族旅行に来ていたときに、赤い車が突っ込んできた。そのまま僕にぶつかって、突き飛ばされた僕は真冬の水の中に落とされた。そこから先は分からない」
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