プロローグ  春

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 社会人を十年もやっていると、満員電車にも慣れる。慣れるといっても、ここ数年は明らかに朝のラッシュ時よりも帰りのほうが身体にこたえるようになってきたし、金曜の夜はなるべく一本でも二本でも早く、混んでいない電車で帰りたい。十年前の自分を見るような、社会人になったばかりの若者たちで電車もオフィス街も膨れ上がるこの時期は特に。 『今夜僕が早く帰れたら、夕飯作って待ってるよ』  今朝、家を出る時にそう約束したことを思い返しながら手にした本を閉じ、冷蔵庫に残っていた食材をひとつひとつ思い出してみる。一皿目を何するか思いついたところでちょうど次の駅に着き、その時フッと思い出した。 『久しぶりにアレ、食べたいな』  たしか、そう言われたメニューがあった。ええと、なんだっけ……。思い出そうとぐるぐる回っていた頭の中は、扉が閉まる直前に駆け込んできた女性たちの楽しげな話し声にあっけなく占領された。 「この前あった同窓会の写真が、SNSにアップされてたの。それで、何人かがコメントしてたんだけど、その中に当時クラスでいちばん人気があった人が『行けなくて悪かった』って書き込んでて。思わずその彼のページに飛んでみたら、びっくりするぐらいカッコよくなってて」 「えー!」 「なにそれ、まるでドラマじゃない」 「でしょ。で、その彼もう結婚してるっぽくて、いちばん新しい投稿に『結婚記念日は久しぶりに遠出して……』みたいに書いてあるんだけど、『この人が奥さんです!』みたいにいかにもな写真はなくて、二人が並んだシルエットばっかりっていうか。しかもその影が、背丈とか体格とかも彼と同じくらいで」 「ねぇ、それってもしかして……」  地下鉄のゴォーッという音にかき消されて聞こえなかったけど、そこから先はだいたい想像がつく。
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