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第六章 岬孝次郎
岬孝次郎は終戦後、満州を経由して日本へ帰国した。大陸での戦闘は熾烈を極め、多くの死人をその目に焼き付け、野良犬の小便が混ざる泥水をすすり一年以上かけて生き延びた。
孝次郎は長男だった。本当は喜一郎と言う長男が居たのだが赤子の時に亡くなり、次に生まれた孝次郎が家の跡を継ぐ事になり、咲枝を嫁にめとった。家業の大工仕事は孝次郎に向いてはいてはいたが、二人の弟達を職人に育て上げると32歳の時、家業を譲り咲枝と息子2人を連れて都内郊外の小さな町で飲食店を始めた。店は咲枝の献身的な働きもあり繁盛、家も建て息子2人も立派に育った。そして、余生は静かに暮らそうとすべてを息子達に譲って町外れの古い文化住宅へ越してきた。
「はじめまして、2階に引っ越してきた島野民子と言います!」玄関を開けると小さな小袋を持った生意気そうな少女が挨拶にやって来た。
「これ、洗剤です。良かったら使ってください!」少女は孝次郎に小袋を押し付けると、早々に去って行った。
「誰か来たんかね?」咲枝は部屋でうとうとしていて気が付かなかった。
「上に子供が引っ越してきた…」
「なにいっとるん?おとうさん?子供が一人で住まんよ?」寝ぼけていた咲枝は孝次郎を諌めた。2人の余生に張りと充実が生まれた。
「ねえちゃん、これ持っていき!」咲枝は暇があれば、いそいそと食事を民子に持たせ、様子を見に行った。民子の素性を知った時、咲枝は涙を流して民子を励ました。孝次郎も守ってやらねばと胸が熱くなった。そして、その3年後、民子は赤子を抱いてあらわれた。
「今日から一緒に暮らす、悠一です!」民子は挨拶すると早々に去って行った。
「ねえちゃん?来たんか?」咲枝は部屋でうとうとしていて気が付かなかった。
「子供が赤子を連れてきた…」
「なにいっとるん?おとうさん?子供が赤子を連れて来るかね?」寝ぼけていた咲枝は孝次郎を諌めた。
「おとうさん!悠ちゃん!歩いとるよ!!」咲枝は驚いて孝次郎を呼び、孝次郎も慌てて家から飛び出すと民子の後をよちよち歩く悠一の姿が見えた。咲枝は我がことのように喜び、孝次郎も今すぐ抱きしめたい衝動を押さえた。
「おじちゃん!あれなに?」悠一は孝次郎の膝の上で足をブラブラさせてテレビ画面に映る物をいちいち聞いてきた。孝次郎はいちいちその質問に答えていた。
「おじさん、いつもごめんね!ありがとう!」迎えに来た民子の声は届いてなかった。
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