十六年目のファーストキス。

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「――書く?」 フロントでチェックインのための用紙に記入しながら、静香を横目で見る。 俺の問いかけに、静香は不意を突かれたような顔をする。ペンを渡すと、緊張した面持ちできゅっと唇を結んだ。 「……字、震えてるけど?」 「だって――」 からかう俺をときどき上目遣いで睨みながら、それでもなんとか、静香は連れの欄に自分の名前を書き終えた。 『悠刻寺静香』 無器用に歪んだ文字が、愛おしくてたまらなかった。 鍵を受け取り、静香の手を取ってエレベーターまで向かう。 「蒼さん、酔ってる?」 「シャンパン一杯で酔うかよ」 「でも……手が、すごく熱いから」 「――何でだと思う?」 繋いでいない方の手を伸ばし、静香の長い髪を耳にかける。そこに唇を寄せるようにして囁くと、白く柔らかそうな耳たぶが真っ赤に染まった。 エレベーターのドアが開く。 手を引いて乗り込もうとする俺に対して、静香は泣きそうな顔で立ち止まったまま、その場を動かない。 「そんなに怖がられると、流石に傷つくんだけど?」 「……だって」 「嫌?」 「嫌じゃないけど……嫌じゃないけど、四時間前に初めてのキスをしたばっかりなのに、いきなりこんなのって……。急過ぎるっていうか、心の準備ができてないっていうか――」 「初めてって、お前な。俺達、十六年前に――」 「そうだけど! わかってるけど……『静香』の私は、全部が初めてだから……」 食われる前のウサギみたに震える静香に、つい笑いがこぼれた。 「アホ。俺だってわかってるよ、それくらい。部屋に入った瞬間とびかかったりしないから、安心しろ」 あからさまにほっとしたような静香の手を引き、エレベータに乗る。 すっかり気が緩んだらしい静香は、無防備な顔で最上階の数字に指を伸ばす。 先回りをするようにボタンを押すと、四角い密室のコーナーに追い込まれた静香が、再び顔を強張らせる。 「――なんてな。そんな紳士的な台詞、俺が言うと思った?」
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