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村外れに、銀色の湖がある。まるで終りない夢のように、ほとんどいつも霧が、かかっている。そんな重苦しい銀色の中では、木々の緑さえ霧に吸い込まれていく。
その中でたった一つ、自分の色を輝かせる、甘い薄紅の桜の巨木の花の色。水銀色した湖の、その中央に向かって何かをつかみ取ろうとするように、黒々とした枝をのばす。その枝にかかる、薄紅の霞(かすみ)。それは、霧(きり)の重い色にとろとろと溶けるように揺れる。
その樹の根元に、一人のむすめが座っているのに、ふと気づく。年のころは十七、八位だろうか。白い着物を着て、夜空の様に黒くまっすぐな髪を傾かせてうつむいている。
なぜ、今まで気づかなかったんだろう。彼女がそこにいたことに。そう思いながら、近づこうとする。とつぜん、強い風が、わぁっと地面から吹き上がる。
『桜の精は死神じゃ。近寄ってはなんねえぞ』
ばばさのことばが頭をよぎる。
むすめはゆっくりと目を上げる。底の無い、水銀色の目。
『目を合わせちゃ、なんねえぞ。断じて目を見ちゃなんねえ』
ああなぜ、ばばさの言いつけをきれいさっぱり忘れたんだ、俺は。
むすめの髪が突風に舞い上がり、瞳が輝く。
もうダメだ…死神は俺を見た!
…春のある夜。陶吉(とうきち)は、そんな夢を見て、はね起きた。
全身が冷たい汗まみれで。
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