桜の木だけは知っている

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何度か停車し乗客もほとんど入れ替わった頃に声を掛けられた。 「……お隣空いてますか?」 風が吹いたら飛んでしまいそうな華奢な女性だった。いつの間にか寝ていた所に急に美人な女性に声を掛けられたので声が裏返ってしまった。 「あっ、はい、どうぞ」 「ありがとうございます」 女性は育ちの良さそうな笑みを浮かべそっと隣に腰を下ろした。 女性の動きに合わせふわりと春らしい匂いが飛んできた。あの日のような安心する匂いに僕は再び瞼を下ろした。 夢の中で彼女は桜の木の下に立って僕が来るのを待っていてくれた。 僕は彼女と話をしていた。他愛もない話だった。コロコロと鈴のように笑う彼女の声が聞こえるようだった。 「……終点ですよ、起きてください」 コロコロと笑っていたのはたまたま相席になった女性だった。 「ん、え…ここは…」 「終点です……そして、ここは貴方の故郷です。お帰りなさい、先輩」 寝起きで頭が回っていないままの僕を女性は手を引き駆けだした。電車の外に出ると懐かしい空気が、景色が瞬時に纏わりついては離れていった。 女性は迷うことなく走って、走って、走り続けてあの桜の木に近付いていく。 桜の木が見えると彼女は急に立ち止まり僕の手を解いた。 僕は走っているうちに気が付いた。この女性こそあの記憶の彼女だ。 「ごめん、約束守れなくて」 「許さないです。私はずっと、待ってました。責任取ってください」 「ごめん…僕にできる事はなんでもする。だから…」 その言いかけた言葉は冷たい唇で封じられた。 ザワザワと桜の木が揺れ花びらを舞い踊らせた。
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