線香花火

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その人物は、幼い男の子だ。彼は右側から車が迫っていることに気が付かないまま、向こう岸を目指して走っている。手を伸ばして引き戻そうとしても、私の腕では少し届かない。 私は思わず走り出した。もう引き戻すことはできない。彼を助けるには、思い切り突き飛ばすしかない。 頭の中は空っぽだった。考えるよりも先に、体が勝手に動いていた。 男の子を突き飛ばす。彼は右足を骨折する予定だが、間一髪で助かった。問題は、今の私の状況だ。 全てがスローモーションのようにゆっくりと動いていくような感覚。右を向くと、目を見開く運転手が見えた。運転手は必死にブレーキを踏んでいる様子だが、私は間に合わないことを知っている。何度も、夢の中で見た光景だ。 乗用車が迫ってくる。今になって私は、一つだけ心残りを思いついた。  本当に、たった一つだけ。それは、線香花火に貼りつけた仕掛けのことだ。  やはり手紙ではなくて、自分の口で伝えるべきだった。たった一言、あんなにも簡単な言葉なのに。私はずっと、彼の隣にいたのに。伝えようと思えば、いつでも伝えられたはずだ。それでも言えなかったのは、幼馴染に親友という心地よい関係が壊れてしまうことが、怖かったからだろう。  ――本当に、どうしてこんな簡単な一言を言えなかったのだろう。     
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