第5章 愛するということ

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秋になると、晴馬が恋しくなる。 ダメ元で電話してみたら、彼は枯れた声で「今すぐ来れるなら」とだけ言った。 色々あった一年だけど、ひとつも報告しないまま。 彼の小さな部屋の狭いベッドで昔のように抱き合った。 煙草味のするキス。 ボサボサの髪の毛。 骨ばった体と、くたびれた洋服たちが並ぶ。 寝落ちした彼の腕をくぐり抜けて、私は晴馬の生活を見て回った。 まだ27歳なのにこんなに荒れた生活していたら、病気になってしまう。 殺風景な部屋の中で唯一特別な存在感を放っていたのは、 あの薔薇だった。 ブリザーブドフラワーなのね。 真紅の四輪の薔薇をこんなに長く大事にしているということは、きっと大事な人からの贈り物か何かに違いない。 小さなガラステーブルの下にはインテリア雑誌や旅行パンフレットが無造作に積まれていた。その中に、あの『忘却』のパンフレット。田丸燿平が残した作品を集めたアート展の案内だった。去年の年末に開催されていたようだ。 プリントされている『忘却』の絵は、何度見ても美しく神秘的なブル―に吸い込まれてしまいそうになる。晴馬がこんなにこの絵に執着するのもきっと、私の知らないドラマがそこにはあるんだろう。 眠っている晴馬の表情は無垢だった。 警戒心もなければ、昏さもない。ただ、眠りの中にいる少年のような綺麗な寝顔。 美しい男。 細く長い指の手にそっと手を重ね、彼を起こさないように頬にキスをする。 帰りたくても帰る家のない寂しさだけは私達は同じ。 出来るものなら一生添い遂げたい。 そんなことをぼんやりと考えている自分がいた。 赤ちゃんを産むならリミットまでまだ少しある。 昨夜、キスの途中で私の目を覗き込んでいた晴馬となら、また心の通じる会話が出来る気がした。でも、その勇気はまだ少し足りない。 雨音の中、私は部屋を出た。 駅前まで歩いていくと、焼き立てのパン屋さんの匂いに誘われて、美味しそうなパンを買って食べながら歩いた。
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