第1章 傷だらけの天使

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予定よりも三十分遅れて彼らがテーブルに着いた時、 婚約者の筈の高津和利は私の腰を引き寄せて「彼女が僕の右腕の助手、原田真央です」と紹介された。 後ろ手に回した左手の指に何もつけて来るなと言われていたのに、私はうっかり誕生日に送って貰ったプラチナの指輪をしていたのを、彼が顔色一つ変えずに引き抜いた。 そして、私にだけ聞こえるように「口紅の色、派手過ぎる。もう少し控え目な色に付け直しておいで」と指示を下された。 化粧室に行き、クラッチバッグに入れておいた三種類のルージュから一番控え目な色を選んで、私は鏡の前で化粧直しをする。 相手の男性が好むのは控え目な色気なのだろうか? 肌に近いベージュのリップを塗り、目元の強い色を指先でにじませた。 そしてレストラン入り口でジャケットを借りて、仕事ができそうな女に早変わり。 席に戻るとすでに前菜は運ばれていて、話の内容はニューヨークで先日開催された展覧会の印象と興味を詳細に熱く語らっていた。私にはわからない世界だ。 なんとなく相槌を打ちながら運ばれてくる料理を上品に食べる。 話の合間にこちらに向けられる視線をもれなく拾って、熱視線を返す。 高津に話を振られても余計なことは一言も発せず、ただ柔和な微笑みを浮かべて頷いていれば問題ない。 私はただ、花としてここに姿勢正しく座ってご機嫌な才色兼備を演じていればいい。 フランス料理は退屈を持て余すぐらい時間をかけて料理を食べる。 次のお皿が来るまで半時間から一時間もかかる。 その都度、種類の違うワインを商談相手の男性が選び、高津はさわやかな笑顔で軽快に話題をすり替えていく。 夜が深まり空がすっかり暗くなる頃、最後のデザートを食べ終わる。 その直後、私は化粧室に言って化粧を直し素早くテーブルに戻った。 高津は消えて、商談相手の彼だけが残っていた。 彼の傍に立つと、こちらを見上げてにっこりと微笑む男はさっきとはまるで別人の顔になっている。 「本物のデザートを頂こうか」と言って、彼はジャケットの裾からホテルの鍵を私に見せた。
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