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こんな時、女優なら役になり切って身も心も温めていくのかもしれない。
見ず知らずの年齢不詳の男に腰を引き寄せられて、特に会話もなくただ誰にも邪魔されない秘密の小部屋に移動して、それからのことを考えると泣き出しそうになった。
私は往生際が悪い。
だけど、それを誰かに見破られるのはもっと最悪だ。
助けてくれる人なんていなかった。
祈ったところで、私は一度も救われた試しなんかない。
震える足を男の節くれだった手が撫で上げる。
私がどんな気持ちでいるのか、見透かしたようにその人は唇に笑みを浮かべ、面白がるような目つきで私を観察していた。
「君も大変だね」
エレベーターに乗り込んで他に誰もいなくなると、その人はつぶやいた。
「あの男はかなり傲慢で鼻持ちならない。そうだろう?」
高津の個人的な話を商談相手にするわけにはいかない。
私は夜景を見つめながら、もっと最悪で最高の体験を思い出す。
目の前の不幸よりもさらに不幸な出来事が、私の心の中に蜘蛛の巣のように張り巡らされた恐怖を払拭することも知っている。
望んでそうしたわけじゃない。
だけど、私はこれまで何度もこの恐怖に打ち勝って朝を迎えてきた。
「あなたは紳士でいられるの?」
頭を切り替えて、ガラス越しに男を見つめ返した。
そして肩越しに振り返り、男の顔を見上げ、出来るだけ美しいと思わせるための微笑を彼に向けた。
スリットの入ったスカートを片足を持ち上げることで、甘いデザートのひとくちへと私が誘導する。余計な話はしてはいけない。
主導権を奪われてはいけないんだ。
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