桜の木の下

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さて、こんな話を聞いたことがあります。 毎年良く咲く古い桜の木の下に、大きな石が乗っかっていました。 村人達はさぞ長い間、桜の木は辛い思いをしていただろうと、大きな石を取り除きました。 すると桜の木は枯れてしまったのです。 人も木も皆それぞれ、重荷を背負って生きるもの。 あるがままの生き方が良かったのです。 石の重みが生きる力になっていたのかも知れません。 一病息災ということもあります。 だから、気を張り生きる力になっていたのだと思います。 宗教を学んでいると気づくことがあります。 宗教の多くは 「自分は人としてダメだな」 「私は人としてまだまだ未熟者だな」という 自覚が必要だといいます。 今の自分を一度否定し「自分はまだまだ」と自覚するところからスタートする。 これを、般若心経では 「無無明(むむみょう)」といいます。 また仏教に 「如実知自心(にょじつちじしん)」という言葉があります。 実の如く自分の心を知るという意味です。 この事について武者小路実篤は 「自分の馬鹿なことを知るものは救われる。 自分の馬鹿に気がつかず、他人の馬鹿だけに気がつくのは本当の馬鹿である」と表現しています。 思わず誰かの顔が浮かんで可笑しくなりました。 悩みをなくそうと 努力する人は多いのですが、ある人が 『悩んでいけるようになりました』 という人がいました。 何か不思議な言葉だと心に残りました。 悩むって必要なことなのです。 桜の木の下の大きな石のように。 君の膝枕でそんな事を 考えていました。 『膝枕 桜木の下 匂う君』       おわり 合掌
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