イノセント・アイ

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 彼との日々は、不満らしい不満なんてないくらい楽しかった。料理の得意な彼は、二人分のお弁当を作ってくれ、部室でいつも一緒に食べていた。『博士の愛した数式』を読んで、一緒に劇場に見に行ったりもした。私は『博士』に入れ込み、彼はどうしてだか『ルート』に共感をした。『僕の能力は、世間の人たちには何の役にも立たないんだ。誰も僕の特技を求めてなどいやしない。ただ一人、ルートにほめてもらえれば、僕はそれだけで満足なんだ』この一文が好きだと言った私に、彼は素敵ですねと言って笑った。キミはどこが好き? そう問いかけると少し考えて、『全部。とっても良い作品でした』と答えた。贅沢を言えば、少しだけ、私にはそれが不満だった。  彼は眼鏡の奥に、切れ長のつり目を隠している。その瞳はまるでこの世界に存在するすべての蜘蛛の糸を、音もなく断ち切ってしまいそうな鋭さを湛えた黒瑠璃だ。彼の黒縁の眼鏡はその常闇を奥に隠して、私に優しい微笑みを送るけれど、でもその危うさに彼自身が気づいているのだろうか。私は少しだけ疑問に思った。  私は彼の眼鏡を外した瞳を見たことがない。  一人暮らしのアパートに彼を招いて、体を重ねたときもそうだった。視力が低い彼は行為の最中も眼鏡を外さなかった。私を腕に抱いたまま、すやすやと眠りについてしまった彼の眼鏡は少しだけずれ落ちていて、私はそっとそれを外して枕元に畳んでおいた。かわいい寝顔だ。このままずっと彼を見ていたら、彼の瞳が覗けるだろうか。  でも、それはあまりに執着的な気がした。その代わりに、私は彼の唇にキスをした。メンソールの香りは、乾燥に弱い彼が愛用するリップクリームの香りだ。初めてキスしたときと変わらない。それだけで私は満たされた気持ちになり、彼の胸に顔を埋めた。
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