3.忘れもの

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 聞けば、弟は明日の午後まで地方でのロケ番組の収録が入っており、終了後都内にとんぼ返りしてそのままラジオ局へ直行するのだという。ラジオではオーダーメイドの眼鏡を必ず装着するそうだが、自宅に置き忘れてしまった。マネージャーが取りに行く時間もないが、眼鏡なしでは仕事にならない。どうせ土曜だし暇だろう、取ってきてほしい。と、そんなところだろうか。冗談じゃない。里沙は呆れた。 「眼鏡くらい我慢しなよ」 「明日公開収録だからトチる訳にいかないんだよ」 「いや知らないし」 「ほんっと申し訳ない」  憎まれ口ばかり叩く慶一郎にしては珍しく、下手に出続けている。これはよほど本気で困っているのだろう。面倒なことこの上ないが、内心では八割方使われてやろうという方向に傾きつつあった。 「淡井にでも頼めば?」  しかし、はいかしこまりましたと二つ返事で引き受ける気にもなれない。だから半笑いで言ってやった。お笑い芸人として活動する弟が、コンビを組んでいる相方の名前。それこそ、以前はべったり仲良しこよしの友人だったと記憶しているが、近年プライベートはおろか一緒に仕事をする機会も減っていると里沙は知っている。意地の悪い質問だった。 「や、無理無理」  流石と言うべきか、里沙の投げた嫌みなボールもするりとかわして彼は言った。よく考えたら喋りのプロだ。動揺した様子もない。相変わらず面白くない奴だった。 「いいじゃん」 「あいつみたいのが突然現場来たら暴動起こるだろ」 「まあ、うん、確かに」  実際、どんなに補正をかけてもイケメンとは言い難い弟ですら、一部のファンから熱烈に追いかけられ、被害届を出してもおかしくないほどの扱いを受けていると聞く。相方の淡井は慶一郎とは顔の作りがまったく違い恐ろしく男前だ。ミーハーなファンも遙かに多い。突如現場に、それも公開収録でファンが集まっている場所なんかに現れようものならどんな騒ぎになることか。暴動というのもあながち大げさな表現ではなかった。 「わかったよ、何時くらいにいけばいい?」 「十六時には着いてると思う。最悪、収録は十七時半からだからそれまでにあれば何とか」 「どうせ打ち合わせとかあるんでしょ。十六時半くらい目指していくわ」 「ほんと悪い」  指示された放送局の名前をメモして、里沙は電話を切ったのだった。
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