4.水

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 二人揃って立ち上がり、隣同士でデュエットをする。もう、何度目になるだろう。あらゆるジャンルの曲に挑戦する度、マリヤは違う顔を見せた。最近はますます磨きがかかっているようにも思える。当初から歌唱の技術はずば抜けていたが、このところの彼女の歌は、ビブラートの揺れをとっても、ブレスひとつとっても、その隅々まで繊細な感情が乗っているように聞こえた。生き生きと歌う彼女と、こうして並んでいる時間が里沙には楽しくて仕方がない――はずだった。  歌っているときは何もかも忘れられる。そう信じていたときもあった。しかし、結局のところ、そんな上手い話はないのだ。必ず、だとか、絶対、なんて有り得ない。今日の曲は常連のリクエストだった。女の片思いを歌い上げた誰もが知る名曲で、難しいパートも多いが、綺麗に重なればとてつもなく気持ちよく響く。里沙はマイクを握り締め、一音も外すことなく主旋律をなぞりながら、心ここにあらずの状態だった。 「何かあったんですか?」 「うん?」 「今日のさっちゃん、一緒に歌っても全っ然楽しくない。ずーっと上の空じゃないですか」  拍手喝采の中、席に着きながらマリヤは言った。今日の彼女は長い髪をそのまま下ろし、地味な黒のヘアピンで額にかかる前髪を留めている。じい、とこちらを覗き込む瞳は一点の曇りもなく、ただただ心配そうな色だけを映す。 「……別に」  里沙は左手でソファの座面を意味もなくなぞった。曲がり角で誰も座らない為、本来の生地が持っていたであろう赤紫色の鮮やかさがいくらか残っている。顔を背けて蟻地獄の巣穴のようなくぼみに触れながら、頬に刺さる視線に気づかない振りをした。マリヤはごく小さくため息をついて、殊更明るい声で笑った。 「ま、いーんですけどね」  考え過ぎかもしれない。素直に聞けば良いのかもしれない。あれからもう一週間が経つ。里沙は、ラジオのサテライトスタジオで彼女を見掛けたことを、未だ本人に伝えることが出来ずにいた。
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