4.水

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 初めて彼女の会った日のことを、里沙はよく覚えている。この店で明らかに浮く若い女は、ひどく目を引いた。ソファの端に腰掛けた彼女は、あれこれ話し掛けるスーさんとママに挟まれて、時折頷きながら微笑んでいた。里沙はその様子を興味本位でじろじろ眺めた。その日はヘビースモーカーの常連も居たので、延々と煙が上がり、店内は白いもやがかかったようになっていた。どうせ気づかれないだろう。遠慮なく観察していたときだった。  彼女が顔を上げた。目が合う。予期せぬ反応だった。彼女は零れそうなほど大きくその目を見開いた。里沙は密かに首を傾げた。どこかで会ったことがあっただろうか。記憶を辿るも、思い当たる節はなかった。しかし、それ以来、彼女は里沙と会う度、こちらに強い視線を送り続けるようになったのだった。  もしかしたら、あの時、マリヤは気づいたのかもしれない。同僚の長沼にも指摘されたように、見る人が見れば、里沙の顔は弟によく似ている。初めて顔を合わせたときから、里沙が砂金慶一郎の親族であると知った上で、マリヤが近づいていたのだとしたら?  過去にもそういう女はいた。ケーブ・ケーブが有名になり始めた頃などは特に酷かった。学生時代の友人から突然食事に誘われ、思い詰めたような顔で慶一郎とお近づきになりたい同僚がいると相談されたときには腰を抜かしそうになった。前の職場の先輩から久しぶりに連絡があり、慶一郎経由で芸能人を紹介して欲しいと頼まれたこともある。「芸能人」というざっくりとしたくくりに苦笑しつつ、次第に里沙は知人からの急な誘いに乗らなくなっていった。その点、長沼は良識あるファンと言えるだろう。彼女がそういった素振りを見せたことは一度もない。  あの日、マリヤが会場にいたのは偶然という可能性もある。里沙と慶一郎の関係に気づいていない可能性もゼロではない。気になるなら確認すれば良いだけのことだ。頭では理解していながら、里沙は踏み出せずにいた。こんなことにこだわるのは馬鹿馬鹿しいかもしれない。だが、里沙の中でマリヤとの歌は――マリヤは、既に特別な存在になっていた。少なくとも、些細なことに引っ掛かって臆病になるくらいには。
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