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まずい、気づいたときには遅かった。もう何杯飲んだか覚えていない。くらくらと揺らめく視界の奥、店内が賑わう様がぼんやり映る。今日は見事に常連の顔ぶれが揃っており、怪しい新規客の姿はなかった。これだけスナックに入り浸り毎回酒を煽っていながら、里沙はアルコールに強くない体質だった。すぐに顔が赤くなり、若い頃は所構わず眠ってしまっていた。ママもよく分かっていて、ごくたまに配分を変えてくることがあるものの、普段は里沙用に薄めの酒を出してくれる。
「……ごめん、水、もらってきて」
右手で額を押さえて、マリヤに耳打ちする。彼女はすぐに察してカウンターまで歩いて行った。やっぱり、あの子は良い子だ。様子のおかしい自分に気を遣って、声を掛けないようにして、ああして水を取りに行ってくれる。そもそもあの日見たのはマリヤじゃないかもしれない。
「もう、飲み過ぎですよ」
受け取ったコップに口をつける。ごくごくと水を飲み下し、テーブルへ置く。苦笑いを浮かべる白い顔。困ったような、優しげな表情は彼女が普段あまり見せない顔だった。里沙はぼうっとその目を見つめて、無意識に声を発していた。
「ねえ、あんたさ、先々週の土曜日、H駅にいた?」
マリヤの動きが止まる。ああ、言ってしまった。微かな後悔が過るも、一度口にしてしまえば言葉は止まらず、里沙はぼそぼそと喋り続けた。
「私、あの日、珍しく出掛けたんだ」
いつだっただろう。休日に何をしている、と聞いても、仕事は、と聞いても、何も答えなかったマリヤ。彼女が普段どんな生活をしているかなんて知らない。口を閉ざすマリヤの代わりに、いつも自分のことを話すのは里沙のほうだった。
「ちょっと、ラジオ局に用事があってさあ」
初めて一緒に歌った日、まるで運命みたいだと思った。重なり合う声も、響き合う歌も、何もかもが心地良かった。生意気ばかり言って、そのくせ里沙には甘えてくるこの子が、心底、可愛かった。
「それでね、ニット帽かぶって立ってた子、見たんだけどさ、」
初めて会った日のように、零れそうなほど目を見開いて、彼女は固まっていた。里沙の中で燻り続けていた疑念が確信へと変わる。
「あれ、まさか、あんたじゃないよね?」
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