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「さっちゃんからですって。よかったねえ、マリヤちゃん」
「ご馳走になります」
「え、そんなん一言も言ってないんですけど」
「まあまあいいじゃないの」
嬉しそうに笑うママと、平気な顔で水割りを煽る女。里沙は頭を抱えた。曲が終わっても、その次の曲が終わっても、彼女は続きを語ろうとはしなかった。先ほど見せた殊勝な表情はどこかへ消え去っていた。他の客からせしめた乾き物をぼりぼり食べている。
「ママ」
察したママが素早く反応してくれる。ほんの悪戯心だ。若いくせにやたら堂々とした態度のこの女が、みっともなく動揺する様を見てみたい。年上としてのプライドなんて生憎里沙は持ち合わせていなかった。少なくとも、この店にいるときは。
「はい」
手元に流れ着いた二本のマイク。その一本を握らせる。彼女の姿は何度か見ているが、里沙の記憶が正しければ一度も歌ったことがないはずだった。
「歌おうよ」
「いえ、私はちょっと」
「はい決定。これならいける? いけるよね。私から入るから、低音やって」
女は何か言おうとしたが問答無用で選曲する。二十年近く前に流行った、女性デュオの失恋ソング。曲が流れ始める。比較的簡単で、知名度も高い。店内は若い子の歌が聴けると勝手に盛り上がっている。彼女は唇を引き結んで不満げな顔をしていたが、思ったよりも普通の様子だった。つまらないな、と思いつつ、里沙は最初の高音パートを歌い始める。
音もなく、隣で、息を呑むのが分かった。視界の端、白い指に力が籠もったように見えた。胸の空くような思いで低音パートを待つ。次の瞬間だった。首の後ろのあたり、ぞくりと何かが駆け抜けた。
「――っ、」
本物の歌だ。たった一音、鼓膜を揺らす歌声。それだけで里沙は殴られたような気分になった。よく響く深い声、どこまでも正確なメロディ、彼女の紡ぐ歌はプロ顔負けの本格的なものだった。衝撃から立ち直れないまま、ハモりのパートに入る。視線が交差した。腹筋に力を入れて、らしくもなく震えそうになる声をどうにか支える。二人の歌はとんでもなく相性が良かった。これまで一緒に歌ったどの相手も、比べものにならない。ぴたりとパズルのピースがはまったような感覚。里沙は夢中になって歌った。
割れんばかりの拍手を受けて、二人は顔を見合わせる。自然と笑みが零れた。それが、里沙とマリヤの最初のデュエットだった。
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