2.スナックパーチ

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 十五階建ての建物はほとんどの階に明かりが灯ったままだ。市内最大規模の総合医療センターとあって歴史は古く職員の数も多い。かつて五本の指に入る大手総合商社に勤めていた里沙が、転職先を探す際目を引かれたたのはその安定性だった。うんざりするほど安定した、ともすれば退屈ともいえる環境から飛び出そうというのに、結局のところ彼女は安全な道を選ぶことしかできなかった。ひとつひとつ不確定要素を潰してはじめてようやく決断を下す。里沙はそういう女だった。 「ちょっとー、聞いてるー?」 「聞いてる聞いてる」  色とりどりの看板が眩く道を照らし、駅へ向かう道は嫌になるほど華やかだ。疲れた目を擦り、のろのろと歩く道のり。里沙の視界に飛び込んできたのは、これでもかと体を密着させて歩く一組の男女だった。 「さっきから全然聞いてないじゃん。せっかく久しぶりなのにー」 「ごめんって」 「心こもってなーい」 「ほんとだって。久しぶりに会えたの、嬉しくてさあ」 「えーほんとー?」  女の腰骨のあたりに添えられた男の指先が戯れるように彷徨う。そのゆったりした動きがやけにいやらしいものに見えて、里沙は眉を顰めた。スピードを上げ一気に追い抜く。女の甘ったるい笑い声、背後から聞こえるそれはまるで子猫の鳴き声のようだった。  コートのポケットを漁る。丸みを帯びた充電ケースを引っ張り出し、舌打ちしたくなるのを何とか堪えた。意味のない言葉の応酬をこれ以上聞かされたら頭がおかしくなりそうだ。小さなワイヤレスイヤホンを耳に突っ込む。いつも通りの爆音。周囲の物音をようやくシャットアウトして、里沙は深々と息をついた。  「練習中」と名付けたプレイリストには、常に十曲以上の項目が保存されている。若い頃から足繁くCDレンタルショップへ通いつめ、今では膨大な曲数のデータが詰まった音楽プレイヤーソフト。もし無人島へひとつだけ持って行けるとしたら、里沙は迷わずこれを選ぶだろう。彼女にとって、歌うことは息をするように自然なことだった。
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