2.スナックパーチ

5/8

5人が本棚に入れています
本棚に追加
/60ページ
 まさに今練習中の一曲を何度もリピートしていれば混雑した電車内も気にならない。なかなか覚えられずにいるCメロをようやく掴みかけたところで、里沙は慌てて席を立った。最寄り駅のひとつ手前。渋滞する改札を出て信号を渡り、少し左に進んだ先にある古びた薬局の角を曲がる。一本奥の通りに入れば、この時間でも賑やかなざわめきが聞こえてくる。歩道まで椅子をはみ出して営業している店も多い。サイドに点滅球のついた電飾看板の脇をすり抜けて、里沙は小さなビルに足を踏み入れた。急勾配の階段、黄ばんだ手すり、蛍光灯の白い光。一段下るごとに、実家へ帰ってきたかのような安心感に包まれる。  地下一階、廊下を少し進んだ先、濃い紫色の看板がひっそりと立っている。「スナックパーチ」と光る白抜きの文字は、いつ見ても少し斜めに傾いでいた。里沙はそっとイヤホンを外す。黒い扉の向こう、がやがやとお喋りをする声が聞こえる。扉には四角い硝子がステンドグラスのようにはめ込まれているが、半透明のそこからは室内の様子をうかがうことはできない。里沙は充電ケースを仕舞い込み、簡素なドアノブを引いた。 「やだあ、さっちゃん、ちょうど良かったわあ」 「ちょうど良かったって、何が?」 「雨でもないのにどうも人が来なくって。そろそろさっちゃんあたり来るんじゃないかなあって思ってたの」  少女のように笑ってみせるママは相変わらず年齢不詳だ。確かに今日はいくらか人が少ない。さっと見渡し、目が合う前に背中を向ける。里沙はコートから腕を引き抜き、勝手に自分専用のシールを貼ったハンガーに掛けた。その間に、手際の良い、というより暇だったのであろうママが水割りと乾き物が用意して待っていた。里沙は手に押しつけられたそれらを抱え定位置へと向かう。 「なに、来てたんだ」  立ち込める白い煙の向こう、ちょこんと座る女の姿。本当は店に入った時から気づいていたけれど、口をついて出たのは我ながらぶっきらぼうな台詞だった。 「さっちゃん来るかなって思って」 「……あんたねえ」 「さっきからママとお話してたんですよ」  マリヤは挑戦的に微笑んだ。今日の彼女は長い髪を高い位置でひとつに結い上げ、ただでさえ小さな顔が余計に強調されているようだった。
/60ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加