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奥さまは御身体の丈夫でない方でした。旦那さまと一部の使用人以外には決して御姿を見せずに、一日の殆どを寝屋か縁側で過ごされておりました。わたしは寂しげな奥さまの傍らで、旦那さまがお帰りになるまで噺相手となるのです。
ある晴れた昼下がり、何時ものように縁側に座る奥さまは、何やら庭に生えた一本の木をぼんやりと見つめなすっておりました。
それは枝垂櫻に御座いました。わたしが藤島家にやって来る前日に花開いたというその櫻は、今では枝いっぱいに淡紅色の花を咲かせておりました。
何故か、鳥籠のようだと思いました。地面に向かってだらりと垂れた枝が、まるで格子のようで。
それを奥さまに伝えますと、この御方は櫻を見つめたまま、どこか憂いを帯びた御顔で小さく微笑いなすったのです。
「ならば、わたくしは鳥籠に囚われた鳥ね……」
何故そのようなことを仰ったのか、あの頃は皆目見当もつきませんでした。けれど今なら少しだけ理解出来るような気がするのです。
奥さまがあの櫻から離れられない理由を───。
櫻子奥さまの夫である景尚さまは、先代から続く貿易商を営んでおいででした。多忙な方では御座いましたが、奥さまのことをとても大切に思っておられ、夫婦で仲睦まじくお過ごしになる時間も多かったように思います。
麗しい御二方が並んでおられるのを見掛けるだけで心が洗われるようでしたが、わたしは景尚さま───換言して、旦那さまの御顔立ちに何故か見覚えが御座いました。けれどもわたしが出逢ってきた中に、旦那さまほど高貴な美しさを持つ殿方がおわすはずも御座いません。わたしはそれをさして気にも留めませんでした。
旦那さまが何故若くして藤島家当主となられたのか。それは旦那さまの父君、大旦那さまが数年前に突然行方知れずとなってしまわれたからに御座います。
藤島家には元々雲雀さまと云う旦那さまの三つ下の妹君もおわしたのですが、大旦那さまが行方知れずとなって、その後を追うかのように病でお亡くなりになられたと云います。そうして不幸が続いたこの藤島家に、喪が明けてから嫁いでこられたのが櫻子奥さまでした。
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