懐古

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 彼はサッカーをしません。かけっこもしません。そのかわり、人をギョッとさせるような風刺の効いた冗談をよく言いました。普段のおとなしい様子からはとても想像がつかない彼の言葉に、私は次第に引きつけられ、たびたび彼と話すようになりました。友人とのサッカーを楽しんだ後で彼の家を訪ね、彼とおしゃべりを楽しんだ後で、かけっこに出かけるという風にです。そうして、一週間、一ヶ月と過ごすうちに、気の合うところを見つけた私たちは、瞬く間に親友になりました。  彼は読書家であると同時に音楽愛好家でもありました。なので、彼の家を訪れたときに最初に聞こえるのは、彼の母親がおやつのドーナツを揚げる音でも、私を迎える足音でも無く、彼の部屋から漏れ聞こえる荘厳なクラシック・ミュージックでした。彼はあまたといる音楽家の中でも、特にショパンを愛していました。私が彼の部屋に遊びに行くと、彼は決まって自分の机の一番大きな引き出しを開け、そこに入ったたくさんのショパンのレコードを、嬉しそうに私に見せるのです。そして、そこに納められた曲の素晴らしさやショパン自身について、熱を込めて語ってくれました。そのおかげで、私は今でもショパンに関しては、そこらのレコード店員より詳しい自信があります。  私はその日も彼の部屋を訪ねました。陽光の割に肌寒い日で、風に吹かれた木の葉が私の鼻先をかすめて飛んでいったのを覚えています。     
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