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「こちらこそ、ありがとう」
郁人は何も言わず、私から視線を逸した。
「部活、大会あるよね。高校なら、総体?だっけ。あれ、応援しに行くね。飛べ!郁人!とかって名前書いた大きい横断幕作って」
勢い良く話し出した私に不意を突かれたのか、郁人は一瞬驚いた顔をしたけど、すぐに笑ってくれた。
「やめろよ。名前は恥ずかしいわ」
お互い小さく笑い合って、すぐに沈黙が流れる。
二人きりでこんなふうに長く話すなんて、初めてのことだった。この時間が一生続いてほしかった。だけど、そう感じるのは私だけ。この気まずい空間から彼を開放してあげなくちゃ。そう思った。
「お願いがあるんだけど」
私と目を合わせないように、自分の靴を見つめていた郁人が顔を上げた。
「お願いって?」
「第二ボタン、ちょうだい」
郁人は、学ランのボタンの上から二番目を指差した私と、ボタンを交互に見ていた。
「あげる人いるならいいけど」
「そんな人いないよ」
言いながら、彼は学ランの第二ボタンを外し、はい、と私に差し出した。
そのとき一瞬、私の掌に郁人の指先が触れた。冷たくて、暖かい指先が。
「ありがとう」
私の右の掌に転がった、小さなボタン。彼の手から渡された、この世でたった一つの彼のもの。
―第二ボタンの場所はその人の心臓に一番近いところだから、好きな人の第二ボタンを貰う―
そんなことを聞いたことがある。
私が本当に欲しかったのは、ボタンじゃない。
郁人の心だ。
それでも、思い出として、残しておきたかったのだ。私が彼に想いを告げた証を。私が彼と過ごした時間がほんの少しだけでもあったという、証を。
私は右手をギュっと握って胸へ押し当てた。
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