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 朝の空港は張り詰めた表情のビジネスマンで溢れかえっていた。搭乗の予定時刻まであと一時間。椙本貴也(すぎもとたかや)はコーヒーショップの片隅で頬杖をついたまま、行き交う人びとをぼんやりと眺めていた。  周囲には目もくれずスマートフォンの画面に集中しているビジネスマンは、昨日までの自分の姿だ。それがいまや、Tシャツにジーンズ、スニーカー姿で、朝のラッシュアワーなど何処吹く風と、甘ったるい飲み物を啜っている。そんな状況が、呆れを通り越してもはや滑稽だとすら思えた。  ふと陽だまりのような笑顔が頭をよぎる。もう長いこと忘れていた顔だったから、そのことに貴也自身が驚いてしまう。四年も前の、たった一日の出来事。そんな過去のことをふいに思い出す自分自身の精神状態が、どうしようもなく弱っているように思えて、貴也は大きな溜息を漏らした。   大学卒業と同時に入社した電機メーカーに退職願を提出したのが昨日のことだ。貴也が勤めていた会社は大手ではないが、高い技術とデザイン性、徹底したアフターサービスで、その製品は一部のユーザーから熱狂的な支持を得ている。貴也はそんな自社製品に誇りを持っていたし、何よりも仕事が好きだった。どちらかと言えば寡黙で決して目立つ方ではないが、持ち前の几帳面さで細部まで手を抜かない貴也の仕事ぶりは、上司からの信頼も厚かった。この十年間、真面目に働いてきたと思う。  そんな生活が今年の四月から一変した。新しく課長として赴任した男から、執拗ないじめを受け始めたのだ。
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